又左草子~~又左、甲斐国へと~~

日記

皆々、息災であるか

前田又左衛門利家である。

此度の日記帳は史跡探訪記、

前回の史跡探訪では 松本城 を紹介致した。

まだ読んでおらぬものは読んでってな!

又左草子~~又左、松本城へ~~
皆々、息災であるか 前田又左衛門利家である。 此度の日記帳は前回の日記帳で予告した通り、史跡探訪紀 である。 前回の日記帳は甘味紹介であった。 まだ読んでおらぬものは読んでまいれ! 又左草子~~抹茶きゃらめるしろのわぁるを喰らう~~ 前回の...

 

して、此度の史跡探訪は 甲斐国 へと参った!

甲斐と云へば、躑躅ヶ崎館 を始め武田信玄殿の史跡で有名じゃな!

儂は何処へと参ったのか

では、

いざ参らん!!

甲斐国田野

 

此度儂が参ったのは甲斐国が 田野 である

現世で申すところの 山梨県甲州市 じゃな!

何故田野へ参ったかと申せば、

この地は武田家終焉の地であり、武田勝頼殿の最期の足跡を辿ることが出来るからじゃ

現世では JR甲斐大和駅 から行くことが出来る。

儂も現世に倣い甲斐大和駅より出発いたそう!

では改めて、

いざ参らん!!

武田家の終焉

 

史跡を辿る前に、武田家の最後について簡単に説いておこう。

武田家が亡んだのは一五八二年三月、

我らが 織田徳川軍 と 北条 の挟撃に遭い、

筆頭家老 穴山信君 を始め多くの有力家臣や一門衆の殆どが離反、

 

勝頼殿に最後まで付き従ったのは側近の家臣と側仕えの侍女のみと誠に寂しい最期であった。

 

此度紹介するは、

一門衆である 小山田信茂 を頼ったが裏切られ、最期を悟った勝頼殿が自害をするために武田家ゆかりの地 天目山栖雲寺 を目指した道のりと勝頼殿の菩提寺である 景徳院 である。

 

天目山を目指した勝頼殿一行であったが、織田軍の別働隊は天目山への道中に陣を構え待ち伏せておった。

後ろからは本軍が迫っておる。

天目山に入ることを諦めた勝頼殿は引き返し我らが織田軍と最期の戦に臨むことを決めた。

 

その足跡を辿ることと致そう。

 

甲斐大和

甲斐大和駅にて電車を降りると迎えてくれるのは武田家終焉の地の文字。

駅から出て北側には勝頼殿の像が見える。

此度の一番の目的である勝頼殿の菩提寺

 

景徳院へはここから歩いて三十分ほど、

山道の景色を楽しみながら進んで参ろうではないか、

儂が参った日は良き天気で、中々良い景色であった!

駅から十五分程歩くと最初の目的地、

四郎作古戦場 の碑に着いた。

この場所は武田家と織田家の最後の戦、

鳥井畑の戦いが始まった場所である。

滝川一益殿が率いる織田軍四千に相対するは小宮山友晴殿、

率いる武田先鋒軍は僅か十名程度であったと聞いておる。

特筆すべきはこの 小宮山友晴 殿は蟄居中の身でありながら 勝頼殿 の窮地を知るや己の身を盾とすべしと館を抜け出し 勝頼殿 の元へ参じたことである。

友晴殿は勝頼殿の自刃の時間を稼ぐべく寡兵ながらも奮闘し、全身に矢を浴びる壮絶な最後であったと聞いておる

誠素晴らしき最期、敵ながら天晴であった。

鳥井畑古戦場

もう少しばかり歩を進めると鳥井畑古戦場の碑が見えて参る!

この地は武田が本陣があった場所じゃ。

そして勝頼殿が息子信勝殿へと家督を譲った場所でもある。

何故この期に及んで家督を譲ったかと申せば、

これが亡き信玄殿の遺命であったからじゃ。

信玄殿は遺言にて「勝頼は陣代として信勝が元服するまで政務をとるべし」としておる

当主としての働きはすれど其の実勝頼殿は武田家の当主ではなかったのじゃな。

滅亡の間際に遺命を果たし、その後に生き残ったもので自害をして果てたのもこの場所である。

景徳院

鳥井畑古戦場から歩いて十分ほど歩くと此度の一番の目玉である景徳院に到着する

勝頼と共に勝頼殿の嫡男にして武田家最後の当主である信勝殿、そして勝頼殿の継室である北条夫人が弔われておる

生害石のもとにはそれぞれの辞世の句が添えられておる。

北条夫人の

黒髪の乱れたる世ぞ はてしなき思ひに消ゆる 露の玉の緒

の句は、乱世の中で勝頼殿を想って若くして散る儚さを謳ったものじゃ。

勝頼殿が何度も逃げよと命じても聞き入れず、最後まで添い遂げた北条夫人の生涯を美しく表しておる句じゃな。

 

本尊左の社務所にて朱印もいただくことが出来た。

厳かな中で美しい場所故に皆に勧める場所である!

片手千人斬の碑

景徳院から少し足を伸ばして此度の最後の目的地に参ろう!

儂が最後に参ったのは 土屋惣蔵片手斬の碑 じゃ。

この地はは 土屋昌恒殿の活躍を讃えた碑である!

土屋昌恒殿は八月の家臣団限定生配信少し取り上げた武士であるな!

武田軍の退路を作るために一人で殿を務め、

崖から落ちぬよう片手で蔦を掴みながら向かい来る敵を切り続けたことから、

片手千人斬の異名で呼ばれるようになった忠義と強さを兼ね備えた武士の鑑である。

昌恒殿はその後討ち死したとも勝頼殿の介錯をした後に自刃したとも言われており、

信長様もその戦い様を比類なき働きであったと称賛されておった。

昌恒殿の嫡男の忠直殿は後に家康殿に仕え、久留里藩の藩主となる。

土屋家は改易の憂き目などもありながらも忠直殿の次男が継いだ土浦藩主として大政奉還まで存続することとなる。

忠直殿が重く取り立てられたのは昌恒殿の誉ある死に様が大きく関わっておると言われておる。

群雄割拠の戦国においてもひときわ目を惹く武士であった。

因みに昌恒殿の兄昌続殿は長篠の戦いにて馬防柵を超えて徳川の本陣を脅かした猛将であった。

一族揃って猛将ぞろいだったわけじゃな!

蛇足

一時は日ノ本有数であった武田家を瓦解させた当主として、勝頼殿は武田信玄殿と比べられ愚君の印象が強いであろう、

だが、我らにとっては決してそうではない。

信玄殿の跡を継ぎ、信玄殿に勝るとも劣らない戦ぶりは近隣の大名に恐れられておった。

信長様が信玄殿に苦戦し、勝頼殿には善戦したことを以て武田親子の器量の差とする考えもよく耳にするが、

織田軍が信玄殿に苦戦した一番の理由は足利義昭様による織田包囲網を作られ、

浅井朝倉や大阪本願寺、三好家を同時に相手せねばならず

西上する武田軍に兵を割けなかったことにある

信長様にとって人生最大の危機であったと言えよう。

比べて勝頼殿が相対した頃は織田包囲網も落ち着き、万全の構えを持って武田軍を相手できたわけじゃ

それどころか、武田家を滅亡せしめた甲州征伐は朝廷からの勅令があって行われておる。

武田親子と織田家の戦いにはこれほどの背景の差があったわけじゃ。

故にこの事から一概に器量を推し量ることは難儀であろう。

信長様も勝頼殿を

「表裏を心得た恐ろしき敵」

と評していたことから手強い相手だったことは疑うべくもないわな。

此度はいつもの史跡探訪と少しばかり毛色を変えてみたが如何であろうか。

https://busho-tai-blog.jp/wordpress/?p=13251

前にも山中鹿之介殿の墓所を紹介したように、

現世ではそこまで知られておらぬ武将の素晴らしき生き様をまた紹介したいと思っておる。

 

皆々も気になる武将がおったならば返文にて申してみよ!

また史跡と共に紹介いたそう!

 

 

次はどこへ参ろうか

では、

さらばじゃ!!

コメント

  1. もち より:

    !!!
    (武田のかn……なんでもないです!!)

    利家様ブログ更新ありがとうございます!また今回は読み応えが凄いー!!!
    以前の配信の「片手千人斬」の二つ名の由来をさらに詳しく知ることが出来るのですね、ありがたい。何回か読み直します。
    まだまだ知らない歴史や武将様のが多いので、これを機に知っていけたらいいなーと思います。

    お写真もいっぱいで分かりやすいので、いつかここも聖地巡礼に行きたいです。
    その際は山梨の名物料理も調べなければ…
    また色々教えてください!

    次回更新も楽しみにお待ちしてます

  2. より:

    利家様こんばんは

    好きな事だから饒舌?
    さて、甲斐国は親戚がいるので何度か訪れた事はありますが甲斐大和駅は降りた事がないので、いやはやなんともグッと来る景色でございますね。

    今回は内容も写し絵もしっかりとしていて読みごたえございますね。
    次はどんな感じの日記帳になるのか楽しみです

  3. miwa より:

    利家さま

    おはようございます(^-^)
    日記帳の更新ありがとうございます。
    今回は大作ですね!

    とても良いお天気で道中の景色や辿った時間など臨場感溢れて旅行気分を味わえて楽しかったです。
    武田家滅亡の歴史はなんとなくの知識はあったのですが今回のお話を読んでより深く理解出来た気がします。
    北条夫人の件では涙腺が。。(;_;)
    土屋昌恒様のお話も初めて知りました。
    勝頼様も悲しい最後でしたが読み終えたあと爽やかな気持ちに。。。利家さまの文才ゆえ?
    また次回作も期待しています(°▽°)

    先日写真撮影の際に私がへたばっていてご心配をおかけしてしまいすみません(>人<;)
    お写真大丈夫でしたよ。
    利家さまから後光が差して神々しく写ってました。。。家宝にしたいと思います。笑
    ありがとうございました♪
    ではまたお会い出来る日を楽しみにしています。

  4. 良子 より:

    利家さま

    こんばんは~
    本日はお城への出陣お疲れさまでした。
    中々返文できずにいます(^^ゞ
    遅れてではありますが少しづつ返文したいものです。
    利家さまの目に映ると嬉しいです。

    今回は史跡ですね。
    写真からはお天気も良く青空が眩しいですね。
    駅から随分と歩かれてるとの印象です。

    いつかは利家さまの紹介していただいた土地へ行きたいものです。
    行けるかな~
    メモメモです。

    次の日記も楽しみにしてます。
    まだまだ日中は暑いと思われます。
    ゆっくりとお休みください。

    • 江戸のともぴぃ より:

      利家さまこんばんはー!(*’▽’*)
      なんと!山梨に行かれたんですね。
      お天気もよく、なかなか楽しい旅だったようですね。何か美味しいものは食べれたのでしょうか。
      私は武将というよりは、お城が好きです。昨日テレビで観た教えの番組を観ていて、まだまだ行きたいのに行けてないお城がたくさんあります(´-ω-`) 休みと、瞬間移動出来る能力が欲しいですww
      利家さまの日記帳は、内容が解りやすく、ためになる情報で、読んでいてとても楽しいです。武田の最期の地、行ってみたくなりました。
      次の更新は何のお話なのか、楽しみにしていまーす。

  5. ぽん2号 より:

    利家様

    意外と早かった、聖地巡礼
    先に諏訪へ行かれると思ってましたが、
    一足飛びに終焉の地へ行かれたんですね。

    勝頼公は、大河ドラマの真田丸を見てから、
    自分でもかなり見方が変わったなぁと思います。
    あと、やっぱり最後まで付いていかれた北条夫人のことも気になりますね。
    今度、何か書籍がないか、探してみようと思います。

    しかし利家様も、山城、史跡巡りに御朱印集めと、充実されてますね。
    次は何処へ行かれるやら…
    楽しみにしてまーす!

    追伸
    利家様の甲斐大和への道程、ダンナに話したら
    利家様は乗り鉄ですね
    と、変に感心しておりました(笑)

  6. あらこ より:

    おはようございます。利家様。
    日記の更新ありがとうございます。
    甲斐国は武田家の終焉の地へ行かれたのですね。
    充実されたようでなによりです。
     
    お写真や説明ありがとうございます。
    武田勝頼様は大河ドラマ「真田丸」で印象が変わりました。本当に知らない事ばかりで、とっても勉強になりました。
    いつか行ってみたい所が増えました。なかなか行けないんですけれど。
     
    ところで、お写真に名物が見当たりませんが?
    甲斐国の美味しいものはもちろん食されたんですよね?
    食レポも楽しみにしていますね!
    今日も良い一日をお過ごしくださいませ。

  7. 結月里洋(ゆづきりょう) より:

    しびれるお話ですね。

    かっこよい武将様ですね!

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