武将紹介

我等が日記帳へとよく参った
儂が正三位権大納言前田又左衛門利家じゃ
此処では我等名古屋おもてなし武将隊の武将六名について紹介する
武士の子細存分に知るがよい

織田信長

本名
織田三郎信長

別称
尾張の大うつけ、第六天魔王

略歴
天文三年(1534年)尾張国勝幡で織田弾正忠家に産まれる
二歳にして那古野城主となるも幼少の頃には大うつけとも呼ばれていた
桶狭間の戦いで今川義元の首を獲ったことによりその名を轟かせると尾張、美濃を領土とした後には、ついに上洛を果たし破竹の勢いで一大勢力を築き上げる
しかし天正十年(1582年)天下統一を目前にして本能寺にて明智光秀の凶刃に倒れた

現世に甦り後は、その持ち前の統率力と決断力で五名の武将、四名の足軽と共に名古屋を世界一の観光都市とするため覇道を駆け上がる

好きな言葉

死のうは一定

豊臣秀吉

本名
豊臣(羽柴)秀吉

別称
太閤、木綿藤吉

略歴
天文六年(1537年)尾張国中村で百姓の子として誕生。生来の人たらしの才が織田信長に気に入られ召し抱えられる。本能寺の変にて主君織田信長が討たれた際には中国大返しにていち早く京へと戻りその仇を討つことに成功。勢いそのままに実権を掌握し天下へと登り詰めた。太閤となり天下人と称されたものの慶長三年(1598年)その生涯を終えた

現世に甦った後は、主君信長の下【人たらし】と言われた才覚で名古屋の魅力を多くの人々に伝える

好きな言葉
負けると思えば負ける勝つと思えば勝つ

徳川家康

 

本名
徳川次郎三郎家康

別称
将軍、東照大権現

略歴
天文十一年(1542年)三河国岡崎の地にて松平家の嫡男として生を受けるも親元を離れ幼少時代を人質として過ごす。桶狭間の戦いの後岡崎城へと戻り戦国大名として織田信長と同盟を結ぶ。その後、天下人となった豊臣秀吉を支える形になるものの彼の死後、遂に征夷大将軍として幕府を開き戦国の世を終わらせた。元和二年(1616年)平穏の世を創りその生涯を終えた。

現世では、自らが城を築いた名古屋の地を世界一の観光都市にするという志の下再び立ち上がる

好きな言葉
急ぐべからず

前田利家

本名
前田又左衛門利家

別称
槍の又左、加賀大納言等

略歴
天文六年(1537年)尾張国荒子で生まれ育つ。齢十四にして織田信長に仕え使う得物から「槍の又左」と称される。信長直属の部隊である赤母衣衆筆頭にも数えられ、織田家の勢力拡大に従い荒子城、府中城、七尾城主となり兵を率いる。主君信長の死により大きな決断を迫られるが友、秀吉を支えることを決意し豊臣政権下において五大老として柱石を担う。慶長四年(1599年)秀吉の後を追うように逝去

現世に甦り、再び主君を支えると共に
かねてより培ったその知識を用い名古屋の観光発信をしていく

好きな言葉
故を温めて新しきを知る

加藤清正

本名
加藤肥後守清正

別称
肥後の虎、地震加藤

略歴
永禄五年(1562年)尾張国中村にて羽柴秀吉の遠戚の家に産まれる
秀吉の小姓として仕え、子飼いの家臣として禄を与えられる
賤ヶ岳の戦いの際、その槍働きから賤ヶ岳の七本槍に数えられ名を広げていく
晩年には熊本城や名古屋城等数多の城の築城にも尽力し築城名人とも称される
慶長十六年(1611年)生涯仕えた豊臣家の最後を見ることなくこの世を去る

現世に主である秀吉と甦りし後は戦で培った胆力とその忠義の心をおもてなしにて発揮する

好きな言葉
履道応乾

前田慶次

本名
前田慶次郎利益

別称
天下御免ノ傾奇者

略歴
天文十一年(1542年)近江国にて名門滝川家に産まれるも母親の再婚により荒子前田家の養子となる。当主の嫡男として家督を継ぐはずだったが、叔父である利家が継ぐ事となり養父と共に出奔後に前田家に戻るも養父の死をきっかけに再び出奔。晩年は上杉家に仕え武功を上げる。生涯、傾奇者と呼ばれ秀吉から御免状を貰いその行動を許される程であったが、慶長十七年(1612年)その華々しい人生に幕を閉じる。

現世に甦ってからは文化人とも称された知識と傾奇者らしいおもてなしにて名古屋の観光発信に尽力する

好きな言葉
天道は満を欠く

以上の六武将にてこの名古屋の魅力を伝えおもてなしをしておる
この日記帳では各人が一人一人綴って居る故
存分に楽しんで参れ!

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