新太閤記 〜蜂須賀小六編〜

日記

皆の衆!
こんばんはじゃ!

豊臣秀吉である!

此度は「蜂須賀小六」を紹介して参るぞ!

いざ!

蜂須賀小六正勝の生涯

「小六」の通称で知られておる、蜂須賀正勝は
大永6年(1526年)に尾張国海東郡蜂須賀郷っちゅう場所を拠点とした国衆であった

蜂須賀正利殿の長男として蜂須賀城にて生まれた男じゃ。

父である正利殿は美濃國斎藤家の斎藤道三様に仕えておった武将であり、
蜂須賀家は元々、織田家とは対立同士であったんじゃわ。

父の死後に正勝も道三様に仕えることとなり、初名は利政。
この諱は道三様より偏諱を賜ったものであり、この名前からも斎藤家の家臣であったことが窺える。

じゃが、道三様と義龍殿が争った長良川の戦い以降、要は、道三様死後は岩倉織田家の織田信賢様に仕えた。

じゃがここでもまだ信長様や儂とは対立関係の場所におるわな。

最終的に信長様に正勝が仕えたのは信賢様や一時的に仕えておった信清殿が尾張国からいなくなった後、
この時に正勝は信長様の許しを得て自身の故郷である蜂須賀郷に戻っておる。

儂との出会いのことはこの現世、様々な文献が残っておるが、どれも後世に書かれた創作。
儂も実のところ昔の話だで、殆ど覚えておらん。

じゃが墨俣に城を築く時には既に儂の近くにおったが故、
その時から儂と正勝は主従関係になっておる。

永禄11年(1568年)には儂の与力として箕作城の攻略に成功。
その後、信長様に従って上洛をもしておる。

その後、信長様が近江国は浅井長政殿親子、朝倉氏との戦が始まると、
正勝は金ヶ崎攻めや姉川の戦いにて儂と共に従軍し功績を残した。

そして長浜城主となった儂の直臣としてこの後、儂の天下取りの支えにもなっていくのじゃ。

 

信長様が本能寺にて倒れられた際には正勝はこの報せを毛利側に情報が漏れぬように、
伝令してきた使者を陣中に監禁したりなどして、儂の中国大返しを手助けした。

そして儂と明智殿の戦、山崎の戦いでは多くの武功を挙げておる。

正勝はこれ以降、儂とともに多くの戦いに従軍しており、
儂が大坂に拠点を置くこととなった際は大坂城の普請をも担当しておるのじゃ。

じゃが、儂の天下統一まであと一歩のところ。
天正14年(1586年)、正勝は次第に病に臥せるようになってしまい京の都で養生していたが、

大坂の屋敷に戻った5月22日にこの世を去った。

享年は61歳であった。
その後、蜂須賀家は息子の家政に家督が継がれ、徳川殿の治世も存続することとなるのじゃ。

まとめ

此度の日記帳はこれにて終いじゃ!
墨俣の時代から儂に支えてきた正勝こと小六。

儂の天下は見れなかったが、それでも儂にとっては素晴らしい家臣で友でもあった。

次回は『藤堂高虎』について紹介致すぞ!!!

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