皆の衆、こんばんはじゃ!
豊臣秀吉である!
儂、豊臣秀吉が織田家臣団30人を毎日紹介する日記帳
此度は前田利家について紹介して参る!
利家の概要
前田利家は、
天文6年(1537年)に荒子城主・前田利春様の4男として尾張国荒子城に生まれた者である。
この天文6年は儂、豊臣秀吉が生まれた年でもあり、利家と儂は同い年ということでもあるんじゃ。
齢14の頃から信長様の小姓としてお仕えしておるのじゃが、
幼少期より信長様とは「うつけ仲間」であり、遊び相手になったりしておったとのこと。
天文21 年(1552年)、利家は信長様と清洲城城である織田信友様との間で起こった戦、
萱津の戦いにて初陣し、首級ひとつをあげる武功を立てたのじゃ。
その戦いの後に元服をし、ここで「前田又左衛門利家」と名乗ったのである。
弘治2年(1556年)に信長様と弟君の織田信勝様との間に起こった戦、
稲生の戦いでは宮井勘兵衛殿に右目下を矢で射抜かれながらも討ち取るという功績をあげておる。
儂はこの時の利家を見た時、危ない奴じゃと感じた。
じゃが、そんな利家であるが、
拾阿弥という信長様が大層寵愛しておった小姓を信長様の前で斬り殺すという事を致した。
これにはちゃんとした理由があり、利家がまつ殿から貰い大切にしておった「筓」と呼ばれる日本刀に挿しておく、現世で言うところのへらのようなものをその拾阿弥という者が盗み、
信長様が仲裁をしたもののその後も拾阿弥による利家の侮辱が多かったが為に利家が怒り、
斬り殺してしまったのじゃ。
これによって信長様は利家に対して、
最初は死罪を言い渡そうとしたものの柴田勝家様たちのおかげもあり出仕停止にとどまったのである。
じゃが、利家は桶狭間の戦いが起こると出仕停止を言い渡されているのを無視し、無断で参陣。
そこで3つの首をあげる武功を取るも、信長様からは許されなかった。
じゃが!
ここで諦める程、利家の精神は弱くはない。
斎藤龍興殿と信長様が争った森部の戦いにも無断で参陣し、
ここでも数々の武功をあげることに成功し、ここでようやく織田家に戻ることが許可されたのじゃ!(な?おかしいじゃろ(褒め言葉じゃ))
その後も利家は信長様に従い続け、
また柴田様の与力にもなり北陸方面を攻める部隊に配属されておる。
しかし、織田家の重臣として多くの武功をあげてく最中、
信長様が明智光秀殿の謀反により本能寺にて亡くなられてしまう。
利家は儂が明智殿を討った山崎の戦いの際には柴田様と共に北陸で戦をしておった為、
信長様の仇を討つことは出来なかった。
そして清洲会議では儂と柴田様が対立をしてしまい、利家は儂と柴田様、
どちらに付くことが良いのか判断を迷ってしまったが、結果的に利家は儂の方へと付いたのじゃ。
その後は儂に仕え、儂と共に多くの戦に出ては数多の武功をあげた。
そんな利家を儂は信頼しており、儂の息子である秀頼が成人するまでの間、
補佐をする「五大老」の1人として加えた。
儂が死んだ後も利家は徳川殿と真っ向から対立して、豊臣を守ろうとしておったと聞いたが、
それも虚しく儂が死んだ翌年に利家もこの世を去ったそうじゃ。
享年は62であったそう。
利家を秀吉が褒める
利家は、
槍の名手とも言われており、それで付いた異名が
「槍の又左」である。
ほんに利家の槍捌きは敵兵を寄せつかせない、
槍になにか宿っている様な、そんな槍捌きであった。
この現世に蘇った今でこそ、その槍捌きは健在じゃと儂は思っておるで。
もしそんな槍捌きが見たき者は1度、
名古屋城で行われる我らの演武に足を運ぶが良いぞ!
まとめ
さて此度の日記帳は以上になる!
織田家のために、豊臣のために一生を捧げた利家。
この者がいなければ、信長様も儂も、
天下を取るという目標は掲げられなかったと思っておるぐらいじゃ。
次回は明智光秀殿について紹介致す!
コメント
秀吉様おはようございます
待ってました!利家様ご登場!
仲良し感が伝わって参ります。
今度利家様に秀吉様紹介文章を書いていただけたらお互いの想いが両方読めて楽しいだろうなぁ。