皆の衆、こんばんはじゃ!
豊臣秀吉である!
儂、豊臣秀吉が織田家臣団30人を毎日紹介する日記帳
此度は滝川一益殿について紹介して参る!
一益殿の概要
滝川一益殿は大永5年(1525年)に滝川一勝様の次男として近江国に生まれた者じゃ。
一益殿が生まれ育った頃の近江国甲賀は六角氏が治めておった為、
滝川氏も六角氏の配下にあったのではないかと言われておる。
若い頃の一益殿はどえりゃ素行が悪かったらしく、
ある事情で叔父に斬り殺されそうになった事があった。
がしかし、一益殿は叔父を返り討ちにし、そのまま出奔をし、河内国に流れ着いたそう。
その地で一益殿は鉄砲の製造法や射撃の技術を学んだと言っておった。
その縁もあってか、池田恒興殿の仲介により一益殿は信長様にお仕えすることとなる。
永禄3年(1560年)、
信長様は桶狭間の戦いにて東海地方で強大な勢力を誇っておった今川義元様を討ち取った。
しかし、この時、
まだ松平元康と名乗っておった徳川家康殿が織田家に従う様子を見せなかった為に、
信長様は一益殿を徳川殿の元へと派遣し、徳川殿を説得させた。
その結果、信長様と徳川殿の和睦が実現し、
皆がよう知っておる「清州同盟」が締結されたのである。
この時の交渉能力が認められた一益殿は、この後、織田家臣団の中で頭角を現していった。
特に長篠の戦いの後に起こった「甲州征伐」では既に逃げ場を失っておった武田勝頼殿と
天目山の近くで戦い、激闘の末、自害に追い込み、武田氏を滅ぼすことに成功させておる。
そして一益殿はこの武功により、関東管領に任命され、
関東や東北地方の諸大名たちを織田家に服属させる大任を担うこととなった。
じゃが、この中で信長様が本能寺にて明智光秀殿の謀反に遭い、倒れられてしまった。
この謀反は一益殿が関東管領に就任して3ヶ月も経たないことの出来事じゃった。
一益殿は信長様の訃報が届くや否や、直ぐに京に向かおうとしたのじゃが、
北条に行手を阻まれ、北条氏との戦が終わった頃には儂と柴田様が対立した清洲会議も既に終わっておったのじゃ。
この清洲会議で一益殿の所領は旧領であった伊勢、長島の5万石の現状維持だけに儂はしたのじゃが、一益殿は会議に参加出来なかっただけの理由でこの処遇は不当であると儂に訴えたのじゃが、
儂はこれを黙殺した。
それに不満を募らせた一益殿は柴田様が儂と争った賤ヶ岳の戦いにて柴田様の方に付き、
参戦をしたのじゃが、結果、柴田様は自害をしたために一益殿は儂に降ることとなった。
そして、儂に所領を全て没収された故に、出家をしたのじゃが、
小牧長久手の戦いにて儂は一益殿の力を必要とし、かつて所有してた蟹江城を奪還するのじゃが、
結果的に徳川殿の軍に急襲され、蟹江城は明け渡された。
じゃが、半月も持ちこたえたが故に、
儂は一益殿に3千石を与えたが、越前国にて蟄居をするように命じた。
して一益殿は越前国にて齢62でこの世を去ったのである。
一益殿を秀吉が褒める
一益殿は
鉄砲の腕を買われ、信長様にお仕えした身。
信長様の前で鉄砲の技術を試した時があり、
その際に約50m離れた約30m四方の的に、
火縄銃の弾丸を100発撃ち込み、72発が命中した。
これは当時の技術としてはどえりゃあ凄いことであり、
一益殿がいかに鉄砲に長けてるかを現しておる話なのじゃ。
この時の一益殿に鉄砲を習っておれば、
儂も鉄砲使いの猿として信長様に褒められていたかのお。
まとめ
さて此度の日記帳は以上になる!
織田家四天王に入っておられる一益殿。
実は忍び説もあるぐらい若い頃はほんに謎に満ちておるのじゃ。
是非皆も一益殿について調べてみると良いぞ!
次回は丹羽長秀様について紹介致す!
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