大河開始(令和5年)まであと656日
【唐突に始まる家康問答!】
●趣旨
これは、
「鳴かぬなら 大河で主役 ほととぎす」
と言われる、儂、徳川家康が令和五に注目を浴びるであろうとの報から、では事前に問答企画にて予備知識を皆に与え大河を百倍楽しもうではないかという趣旨である
皆と良き刻を過ごしたき我が想いよ、届け
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前回の問答の答えはこれじゃ!
問:天文十六年(1547)、六歳の儂徳川家康(幼名・竹千代)が人質として駿府の今川義元様のところに向かう途中、ある武将の計略により尾張の織田信秀様のもとに送られてしまった
幼い儂竹千代を奪った武将は誰であったか
答:三、戸田康光
正解者よ、大儀であった(全員正解であった。。。)
儂徳川家康は人質として、どのような経路で駿府に向かおうとしていたのか、様々な説があるが。。。
数十人の側近と従者を従えて西郡(蒲郡)の港から船で吉田(豊橋)に、その後は陸路で「潮見峠」に差し掛かった時に、田原の戸田康光氏に襲われそのまま田原の港から熱田に連れて行かれたのじゃ
田原の戸田氏は吉田城を今川氏に略取されたこともあり、相容れぬ関係にあったからだとされておる
。。。
では今回の問答はこれじゃ!
第五問
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問:駿府での人質生活について伝えられておるエピソードがいくつもあるが、正月参賀の席で儂竹千代が義元様や重臣たちの前でしたと伝わることは何であろうか
一、義元様から祝いの酒を勧められ、堂々と飲みほした
二、庭に出て元気良く蹴鞠(けまり)をはじめた
三、突然縁側に出ると庭に向かって立小便をした
四、宴席の真ん中で突然舞いをはじめた
五、どうする家康
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では答えは次回の発表であるぞ。心待ちにせよ。
この問答企画で儂徳川家康を学び大河ドラマ“どうする家康”を百倍たのしもうではないか!
家康
コメント
将軍様、おはようございます。
土曜日なのに雨ですね…。
一雨毎に春に近付き、家康様大河の放送も近付いていると思うことにしましょうか。
今回も出題ありがとうございました。
三番、戸田康光殿ですね(^^)v
前回の問答に登場されたので調べました~♪
次は鵜殿長照殿を調べねば…!
将軍様の深い作戦にはまっております(笑)
おはようございます。家康さま。\(^o^)/
四問目はは人質に送られるさい、さらに売られてしまったという事件についてでございますね。
ではでは。
「三、戸田康光」当時の田原城城主さまで最終問答お願いいたします\(^o^)/
・・・・
思えば。。。。このようなことがあったゆえ
子供時代の尾張のお兄様との出会いもあり、
溺れそうになった水泳やら、石を投げての結構本気の合戦ごっこやら。。。で
さんざん鍛えられたというお話も以前お聞きしましたっけ(* ´艸`)
現在。座談の機会はお休みとなっておりますが、
日記にて、当時の様々をお話しいただき楽しませていただけることまこと有難うございます。
勿論。座談がお聞きできる日は心待ちにしております。
・・・・
本日は雨。。。。
演武を拝見できずはまこと残念至極にございますが
蕾が膨らみ始めた桜への「催花雨」かと。。。。
昨年はかなわなかった桜と武将様のお姿に仰山逢えます事を楽しみにいたします(#^^#)
家康様
こんにちは!
いつも元気と笑顔と幸せ、そして思い出をありがとうございます!
今回もよろしくお願いいたします。
第四問
三、戸田康光様だと思います。
今川義元様の命で駿府まで送り届ける筈でしたのに、
織田方へ鞍替えとは・・・・・
此処で解らぬ事が、
何故、織田方へ
もし、鞍替えしていなかったら、歴史はどう変わっていたのかしら?
何せ、歴史が嫌いだったものですから、
是非、御教え下さいませ。
今日という日にありがとう!!
やまかんで、3にします!!
わからないから、解説楽しみです!!
家康様
日記ありがとうございます。
第4問は
3番 戸田康光
でお願いします。
「もし」予定通りに竹千代君が駿府に行っていたら、歴史はどのように動いたのか。
とても気になります。
当時のお姫様は政治の為というか家の為にというか於大様や当時のお姫様も複雑な気持ちだったのかなってなりますけどそういう時代の中で生きているから負けない強い心というか気持ちを持っていそうな感じがします(〃´ω`)
今回はたしか家康様の叔父上様ですよね?名前はちょっとわからないのですけど家康様と同じ「康」の字があるので三番にします(〃’ω’〃)
将軍様、おはようございます
あれ
前回の返文が残っておりますが…
気にせずに第五問を回答させていただきましょう!
三番、突然縁側に出ると庭に向かって立小便をした
嫌がらせをされて子供ながらに抵抗の意思を示されたと聞いております。
信長様直伝との噂も(笑)
家康様は小田原征伐の際に秀吉様と連れ○。○しながら関東移封が決まったお話もあり、そちら系の話題も豊富であられますわね(苦笑)
家康様
こんにちは!
いつも元気と笑顔と幸せ、そして思い出をありがとうございます!
今回も難しいですね。
人質というと暗い座敷牢という暗いイメージがあったのですが、
此の頃、今川家の軍師殿より御指導を受け、お勉強されていたとも聞いておりました。
故に「一、義元様から祝いの酒を勧められ、堂々と飲みほした」では、
でも、「三」のような気もする・・・・・
解りません!
今日という日にありがとう!!
家康様
こんばんは。
えーと、第四問が消失して、回答コメントと第五問が合体しておりますが…
???
合体の術?雲隠れの術?でしょうか?(笑)
第五問の回答は
3番の立小便で。
以前、座談で聞いたような気がします。
また座談が聞けるような状況になってくれたら嬉しいのですが。
第五問の答えは三でしょうか。
あら?第四問を見逃しました。見逃した上に消えてしまったのでしょうか?
戦国時代は幼い頃からこういう危険も起こる時代だったのかなと想うと生きる力も心も逞しそうな感じがします(〃’ω’)
今回のは三番ですね((〃´υ`〃))
家康さま。ちぃとで遅れましたが、おはようございます。
確かに駿河時代にも数々のエピソードがございますね。
此度の件も。。。
事件というよりも?尾張のお兄さまの元ではよくある出来事ともお聞きした記憶もございますが。。。
ともあれ。
今回は「どーする家康」というより「どーなる家康」というような出来事ではなかったかと思います
「どーする!徳川家臣(;´Д`)」でもございますね
ではでは。最終問答は
どどん!
「三、突然縁側に出ると庭に向かって立小便をした」
・・・・
この後も。数々のエピソード楽しみにしておりますね。
正解、嬉しいです!
次は、3番にしたいです!!
信長様のご指導で会得した技?三番を披露してしまったのですよね。
本日お城にて承りました件について、復命しに参りました。
再び現地調査に行く時間がございませんので、
からくり箱電子網調べ、と、写し絵を撮ってきた銘板の説明
でお許されませ。
件の晒首っぽい石像は、広小路通の栄交番(朝日神社の隣)
の目の前に設置されていて
栗林楓弥 殿/作「黒冑」という作品です。
広小路通のあの辺りに、若手芸術家の造形作品がいくつか設置されている内の一つで、
他は現代アートというか、抽象的な感じですが、
こちらは鯰尾の兜に面頬をつけた武将の首です。
兜の形といい、面頬の感じといい、私はどうしても加賀様の
御首に見えてしまい…。
一度本人様にお見せしたい誘惑に駆られます。