織田家臣団30人毎日紹介 〜大嶋光義(雲八)編〜

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皆の衆、こんばんはじゃ!
豊臣秀吉である!

儂、豊臣秀吉が織田家臣団30人を毎日紹介する日記帳
此度は大嶋光義(雲八)殿について紹介して参る!

光義殿の概要

大嶋光義殿は、
永正5年(1508年)、美濃国にて生まれた者である。

永正12年(1512年)に父である光宗殿が山県合戦という戦で多くの家臣と共に戦死した為、幼少にて孤児となってしまったのだが、その際に縁者である大杉弾正殿と言う者に育てられたのじゃ。

初めは美濃齋藤家の家臣であった長井道利殿にお仕えし、
長井氏が没落した後に信長様に弓の腕を見出され仕えることとなった。

光義殿の通称である「雲八」と言う名は、
坂本の戦いで信長様に「白雲もうがつような働き」と賞賛され、信長様より貰った名である。

本能寺の変にて信長様が倒れた後は儂に仕え、儂は弓足軽大将に任命をした。
小田原の戦いにも参陣しており、儂の本陣にて300騎を率いたのじゃ。

儂が死んだ後は徳川家康殿に仕えたのじゃが、
三成と徳川殿が争った関ヶ原の戦いでは齢93にして戦場を駆け抜けたそう。

してその後は関藩の初代藩主となり、齢97にてこの世を去ったのである。

光義殿を秀吉が褒める

光義殿の凄い所はなんと言っても長寿だと言うこと。

儂らの頃の平均寿命は齢40から50だったで、
それを遥かに上回る97まで生きたと言うのはほんに凄いこと。

それに齢93で戦場を駆け抜けてるのも、只者ではない故に、
もし光義がこの現世に蘇っておったら長寿の秘訣を教えてほしいものじゃ。

まとめ

さて此度の日記帳は以上である!

この現世では光義殿を題材にした書物がある故に、もしこの日記帳を読んで光義殿が気になった者は儂が教えたるで是非、名古屋城に遊びに来てちょうよ!

次回は蒲生氏郷殿について紹介致す!

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