織田家臣団30人毎日紹介 〜織田信雄編〜

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皆の衆、こんばんはじゃ!
豊臣秀吉である!

儂、豊臣秀吉が織田家臣団30人を毎日紹介する日記帳
此度は織田信雄様について紹介して参る!

信雄様の概要

織田信雄様は、
永禄元年(1558年)に信長様の次男として尾張国にて生まれたお方である。

昨日紹介致した、3男の信孝様とは同じ年に生まれておるがそこについては昨日紹介しておるで
是非、信孝様の紹介も見てちょうよ。

幼名は「茶筅丸」様と名付けられたのじゃが、
これは信雄様がお生まれになった際にそのお姿をみた信長様が「茶道具の茶筅」を連想させたことからそう名付けられたのじゃ。
(名前の付け方適当ですな)

そんな変わった幼名をお持ちであった信雄様は、
永禄12年(1569年)に伊勢国国司である北畠氏の養子となり、織田家を離れ、
元亀3年(1572年)には元服し「北畠具豊」と名乗ったのである。

そして天正3年(1575年)に北畠家の家督を継承し「北畠信意」と改名し、
北畠家を支配すると、その時、何を思ったのか信長様に無断で伊賀国に攻め入ってしまったのじゃ。

結果的にこの伊賀攻めは信雄様の大敗に終わったものの、
その際に信長様から「親子の縁を切る」などと言われたりしておる。

また信長様が本能寺にて倒れられた際にも信雄様は近江国甲賀まで進軍をしたのにも関わらず、
信長様の仇を討たずに撤退をしてしまっている。

その後は、織田家に復帰して、
ここでようやく「織田信雄」と名乗るのじゃが、
儂と徳川殿の両方に付いたり付かなかったりして周囲を困らせたのじゃ。

結果的に儂の方に付き、小田原攻めで武功をあげるも褒賞をめぐって問題行動を起こし、
儂は徳川殿の旧領であった遠江国へと移封を命じたのじゃが、これに信雄様は応じなかった。

故に儂はついに堪忍袋が切れ、信雄様を改易とし、関東へ流罪に処したのじゃ。

その後は関ヶ原の戦いに参戦する訳もなく、傍観しておったら徳川殿にまた改易させられたり、
大坂の陣にて徳川方に寝返り、また大名として取り立てられたりなど多くの周囲を困らすような
人生を送って行ったのじゃが、寛永7年(1630年)に京都にて亡くなった。

享年は73であったそう。

信雄様を秀吉が褒める

信雄様は多くの失敗からこの現世ではあまり評価が高くないと噂に聞いたのじゃが、
儂がどえりゃあ褒めたいのは、

信長様の血筋を後世に残した」と言うこと。

信雄様のご子孫は信雄様が亡くなられた後、幕府の旗本として存続することとなる。
故にこの現世まで信長様の血筋が繋がっとるということ。

家を残すのも立派なことじゃからな。

儂は、残せんかったけれども

まとめ

さて此度の日記帳は以上になる!

信長様のご子息として生まれ、儂、そして徳川殿の治世まで生きたお方。
もしこれを読んでるものも信雄様についてたくさん調べてみてちょうよ!

次回は織田信忠様について紹介致す!

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