【唐突に始まる家康問答!其の九十】〜大河ドラマ“どうする家康”まで待ちきった

日記

唐突に始まる家康問答!

趣旨

ようやく参ったこの時が

どうする家康年開始じゃ!

 

前問答の答え

問:徳川政権の将来に亘る安定を図るため、儂徳川家康の九男、十男、十一男を藩祖に後に御三家が設けられたが、御三家筆頭・尾張徳川家の藩祖となったのは誰じゃ

 

 

:二、義直(よしなお)

 

 

正解者よ、大儀であった

 

徳川義直は儂徳川家康の九男
母は於亀の方で、慶長五年(1600)十一月二十八日に大坂城で誕生した

十男・頼宣、十一男・頼房と共に、駿府に居城を移した儂徳川家康の膝下で教育を受ける事ができた点が他の兄弟たちと異なるのぅ

慶長八年(1603)に甲斐二十五万石、同十二年(1607)に尾張五十三万石の領主となるが、
駿府の儂のもとで育ち、名護屋城に入ったのは元和二年(1616)になってからの事じゃ

以後、木曽の山林や美濃(岐阜県南部)で五万石を加封するなど御三家筆頭として優遇を受け、同五年(1619)には六十一万九千石となったのじゃ

 

 

。。。

 

第九十問

問:徳川御三家とは、尾張徳川家、水戸徳川家とどこの徳川家じゃ

 

 

一、会津

二、越前

三、紀伊

四、一橋

五、どうする家康

 

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では答えは次回の発表であるぞ。心待ちにせよ。

皆からの質問

 

加え、皆からの質問に一つ直々に答えようぞ

故に知りたきこと、解らぬ事が在らば聞け

 

此度はこの質問に答えようぞ

 

九男であるにもかかわらず、義直様を尾張徳川家の藩主と定められたのは、如何なる理由にございましょうか

 

答:実は実子でのう、男にて選べるは実質秀忠の後が義直であったともいえる

子は多かれど、それほど多くから御三家筆頭を任せられる者は選べなんだんじゃ

それでも他大名家から比ぶれば、人の層で申せば徳川は圧倒的に厚かった

 

 

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この問答企画で儂徳川家康を学び大河ドラマどうする家康を百倍たのしもうではないか!

 

家康

 

コメント

  1. 善か朗 より:

    金シャチ横丁どうする家康展のオープニングに出陣だったのですね。
    随分と出席者が多いようにお見受けします。

    さて今回の問答の答えは
    三、紀伊 といたします。

    この御三家に加え、宗家との家紋の区別がつきません。
    どこか具体的に、ここを見ればわかるというポイントはあるのでしょうか?

    7月というのにこの暑さ、もう耐えきれぬかもしれません。
    家康様もどうぞご自愛くださいませ。

  2. ちよこれいとすき より:

    家康様 
     
    三番 紀伊
    で、お願いします。
     
    徳川御三家筆頭は尾張家と聞いたような気がしますが、将軍を輩出出来なかったのは何か理由があるのでしょうか?
     
    金シャチ横丁でのお披露目には四天王のお一人、万千代さまと自称三河の色男もいらして、華やかだったのですね。
    お写真ありがとうございます。

  3. Pちゃんママ より:

    大御所様 金シャチ横丁への御出陣お疲れ様でございました。お暑い中にもかかわらず、大層な人出だったと瓦版に写絵付きで掲載されておりました。
    当時も現世にても美少年直政様と、自称三河の色男殿や半蔵殿等、沢山のお写真をあげて下さって有難う存知ました。
    さて、此の度の問答のお答えにございましたが
    三、紀伊にございましょうか?
    ところで唐突ですが質問です。御三家を置かれた藩の理由として、尾張藩は西国大名に対する備えでは?と推察出来るのですが、水戸や紀伊に置かれたと言う事は如何なる理由によるものなのでしょうか?
    七月とは思えない厳しい暑さが続きます。
    大御所様に於かれましても、体調等崩されませんよう御自愛下さいませ。

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