新太閤記 〜福島正則編〜

日記

皆の衆!
こんばんはじゃ!

豊臣秀吉である!
此度の日記帳は

儂が自分の家臣を紹介する日記帳、第4弾じゃ!

前回から儂の子飼いについて紹介を始めたが、最初は清正からであったな!

続いての子飼いは福島正則についてじゃ!

いざ!

福島正則の生涯

福島正則は永禄4年(1561年)に尾張国海東郡二ッ寺村(現あま市)にて生まれた男じゃ。

幼名は市松

元々は桶屋の息子なのじゃが、正則のおかあちゃんが儂のおかあちゃんの妹に当たる人物だで、
儂から見ると正則は従弟の関係になるのじゃわ。

じゃが従弟と言うても、歳は24離れておっての。儂にしてみればかわええ息子と同然なんじゃ。

正則も清正同様に儂が長浜の城主となった際に小姓として仕えるようになり、

初陣は天正6年(1578年)の三木城攻め。

これは儂が三木城の城主であった別所長治殿に対して行った2度に亘る兵糧攻め。
そこで正則は敵将の首を2つあげる武功を納め、儂は正則に禄高200石を与えたのじゃ。

天正10年(1582年)に織田信長様が明智光秀殿の謀反にて討たれた後に
儂が信長様の仇を討った戰、「山崎の戦い」では勝龍寺城を攻撃し武功をあげ、300石を正則に加増した。

賤ヶ岳の戦い」でも一番槍として、
正則は敵将である「拝郷家嘉」を打ち取るなどして、ここでは5000石を加増したのじゃわ。

その後も「小牧長久手の戦い」や「九州征伐」、
または異国の地にも行き、豊臣の為、儂に為に武功を多くあげてきたのじゃが、

その最中に儂はこの世を去ってしまう。

その後、正則は儂の子飼いの1人でもあり、兄弟のように育った石田三成と対立をすることとなる。
まぁ、昔から正則と三成は馬が合わんと思っておったのじゃが、、、

対立した結果、正則と清正ら、
所謂「武断派」と現世では呼ばれとる者たちは三成を暗殺しようと計画してしまった。

儂はこれを現世に蘇り、知った際、どえりゃあ悲しくなってしまったわな。

儂の教育が悪かったのか、いや、あそこで儂が死ななければ良かったのか。
そんな風に感じてしまったわい。

じゃが、この暗殺計画を止めにかかったのは徳川殿。
正則はこの時、徳川殿に諭されて暗殺計画を中止にしたと、現世では言われておるが、
この時に徳川殿に心を開いたらしいのじゃ。

そしてその後に起こった大戰、
関ヶ原の戦い」にて正則はここでも一番槍になる予定であったのじゃが、

徳川殿の家臣である井伊直政と徳川殿の4男である松平忠吉に抜け駆けをされてしまい、
その後に正則も続いたとのこと。

しかしながら、そんな正則の功績もあり、徳川殿はこの戰で大勝利を納めた。
、、、このことを書いとる儂はちいと心が痛いが。

そしてこの功績により、
正則は安芸国広島と備後国の2カ国を徳川殿から拝領し、大大名となったのじゃが、

豊臣が滅亡をしてしまった後に正則は広島城を直しただけで秀忠から改易を命じられてしまうのじゃ。

これには色々と理由があるとのことなのじゃが、広く伝えられておるのは、
徳川殿らが制定して武家諸法度の項目違反をした為と言われておるわな。

改易された後は次男である福島忠勝に家督を譲ったのじゃが、
忠勝が直ぐに死んでしまった為に。幕府に2万5000石を返上し、
その後の寛永元年(1624年)にこの世を去ったのじゃ。

享年は64歳であったそう。

正則の逸話

ここまで正則の生涯を書き記してきたのじゃが、正則には酒での逸話が多く残されておるんじゃな。

有名なのは「日本号」の逸話。
この槍は「呑取りの槍」と呼ばれる槍でもあってな。

最初は儂が所持をしておったのを正則に褒美として渡したのじゃが、
この槍を正則は長政の家臣であった母里太兵衛と飲んでる最中に賭けの対象としてしまったのじゃ。

これは太兵衛があまり酒を飲んでいないことに気づいた正則が、
黒田の家臣たちはそんな大柄な身体をしておるのに酒はあまり飲めんのか
と馬鹿にしたことから始まる話。

ここで話すとな、長なるで是非ともこの話は皆、調べてみてほしい話じゃ。

儂に聞いてくれれば何時でも話でね。

しかしながら、正則も正則で人があげた物を賭けの対象とするなど、、、

まとめ

此度の日記帳はこれにて終いじゃ!

清正と同じく、豊臣に忠誠を誓い、そして豊臣の安寧を願った男。
じゃが時代を見据えて徳川殿に下った男でもある正則の生涯。

ほんに素晴らしいと、儂は思う。

次回は長浜城下で出会った男「石田三成」について紹介して参るぞ!

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