新太閤記 〜石田三成編〜

日記

皆の衆!
こんばんはじゃ!

豊臣秀吉である!

此度の家臣紹介は子飼いの1人、石田三成についてじゃ!
いざ!参るぞ!

石田三成の生涯

三成は永禄3年(1560年)に近江国石田村っちゅう場所で生まれた男じゃ。

幼名は佐吉

三成の家系はな、ちいとばかり名の知れた土豪の家系であってな。
『石田』っちゅう苗字もこの『石田村(或いは石田郷)』から来とるんじゃわ。

佐吉が儂に仕えたのは、信長様に儂が仕えておった頃の話。
儂はこの時、初めて信長様より近江国は長浜の地をいただき、長浜城を築城し城主となったのじゃ。

儂と出会った話はこの現世でも大変知られておるわな。

儂が長浜城下にて鷹狩を行っておった際に、たまたま休憩の為、立ち寄った寺に奉仕をしておったのが佐吉であったんじゃわ。

そこで佐吉は儂に茶を3杯提供したのじゃが、

まず初めは『ぬるめの茶を大きな茶碗』で
それを儂が飲み干すと、次に『ちいと熱めの茶をやや小さめの茶碗』を佐吉は持ってきた。
またそれを儂が飲み干すと、最後に『熱めの茶を小さい茶碗』でまた佐吉は儂の前に持ってきた。

これはな、儂が最初に疲れており、喉が渇いておるということを察した佐吉が、
早く飲み干せるようにと最初にぬるめの茶を出してきたんじゃわな。

そして徐々に熱くしていき、茶の本来の味が楽しめるようにと、
最後は熱めの茶を出してきたのである。

儂はなあ。
その佐吉の行為を褒め称えてなあ。

「なんと気遣いの出来る稚児なんじゃ」

と思い、直々に儂の小姓としたんじゃわ。

その際に佐吉の兄である正澄と父である正継も儂の家臣として取り立てた。
ここから儂や豊臣に対する忠誠心が出来上がったわけである。

佐吉しかり三成の人生はここからが始まりになる。

信長様が本能寺で亡くなられたのちに儂は信長様の夢を引き継ぎ、
この日の本を統一しようと画策した。

それに従って三成は儂の側近として次第に豊臣の家臣団の中で発言力を持つようになったんじゃな。

この現世の者たちの印象じゃと、三成は戰に出ていない印象が強いと聞く。

確かにそうじゃわな。
儂の横に常におる、という感じで昨今の絵巻などには書かれておる。

それは儂が与えた役職などが関係しておるんでにゃあかと、この現世に蘇って思った。

天正14年(1586年)頃には堺奉行に任命し、また九州平定後は博多奉行に任命しておる。

『刀や槍、そういった物を持って戦う。』

と言うよりかは、書物を読み、兵法を学び、人が死なない戰をする。
と言うのが三成の戦い方だったわけじゃ。

どうじゃ?儂に近しい考えをしとるじゃろ。
じゃからこそ、儂は三成のことをえりゃあ気に入っておったわけじゃ。

じゃがな、三成はその戦い方が故に儂率いる豊臣が負けてしもうた戰があるんじゃわ。

三成、忍城を攻めるがその結果は、、、

天正18年(1590年)の出来事じゃ。

儂は全国統一の最後の戰として、儂に降らんかった後北条氏を攻めることとした。
その後北条氏の拠点である小田原城を攻める際に、関東の城を次々に攻めておったのじゃ。

有名なのは利家たちが攻め入った『八王子城の戦い』であるわな。

三成も儂の命で『忍城』っちゅう城を攻めておったのじゃが、
この時、三成は儂が得意としておった戦術、『水攻め』を使い、忍城を落城させようと考えた。

じゃがな。

この三成が使った戦術は忍城に籠城しておった成田軍のものたちが上手く策を出し合い、奮闘したため、
三成だけではこの城は落ちんと判断した儂が援軍に利家や上杉景勝ら八王子城を攻めておった者たちを送ったが、

小田原城が陥落し、後北条氏が儂に降伏しても忍城での戰はまだ終わらなかった。

故に、儂が唯一、戦術を使っても落とせんかった城として、この忍城は後世に伝えられることとなったわけじゃな。

ではこの戰の指揮を取った三成を儂が咎めたかというと、実はあまり咎めることをしておらんのじゃわ。

三成はこの忍城の戰以外にも、当時、常陸国(今の茨城県)を治めておった佐竹義宣が儂に謁見をする際の取次役を担ったりするなど、

実は戰以外での功績が大きかった為に咎めることをしなかったのじゃ。

儂の死後、徳川殿と対立

慶長3年(1598年)、儂がこの世を去ると、三成は徳川殿と対立し、
それが元で関ヶ原の戦いへと発展してしまったそうであるな。

儂が生きておった時にはどえりゃあ仲良くやっておったと記憶しておるのじゃが、
これも儂が死んだせいなのかもしれぬなあ。

その関ヶ原の戦いにて三成は徳川殿に負けてしまい、
三成自身が幼少期を過ごした石田村やその周辺に逃げ込んだが、

その場所にて田中吉政の追撃隊に見つかり、捕縛され、
慶長5年(1600年)10月1日、京の六条河原にて斬首されたとのこと。

享年は41。

佐吉の逸話

佐吉は斬首される前に、「喉が渇いた」と言い水を所望したところ、
干し柿を渡され、それを断ったという話があるそうな。

この時に断った理由として「痰の毒であるから食べない」と断ったそうなのじゃが、
これを干し柿を差し出した者たちは笑ったそう。

しかしながら、これにはちゃんと佐吉らしい理由があっての。

佐吉は斬首される寸前まで徳川殿の首をずっと狙っておった。

故に自分の本望を叶えるまでは自分の命を大事にしたいが為、
干し柿のような毒は要らぬと、そう断ったじゃわ。

ほんに佐吉らしい、考えであるな。

まとめ

此度の日記帳はこれにて終いじゃ!

儂の為に生き、儂が作りし豊臣の世を守ろうとした男の話、どうじゃったか?
清正も然り、儂の大事な子飼い家臣たちは儂のことを常に思っておったとそう感じておる。

また佐吉の話が聞きたき者は儂のところに来てちょ。

次回はそんな佐吉の盟友としても知られておる『大谷吉継』を紹介致すぞ!

コメント

タイトルとURLをコピーしました