新太閤記 〜大谷吉継編〜

日記

皆の衆!
こんばんはじゃ!

豊臣秀吉である!

続いての子飼いは大谷吉継についてじゃ!
いざ!参る!

大谷吉継の生涯

吉継は永禄8年(1565年)に近江国で生まれた男である。

吉継の母親である東殿っちゅう女子はな、儂の正妻でもあるおねの母親、朝日殿の親類にあたり、
おねの侍女を務めておった女子だったのじゃわ。

そんな吉継の幼名は慶松。通称は紀之介

天正の初め頃に儂の小姓となり、
儂やおねに若い時から育てられた為に『子飼い』の1人なんじゃわ。

紀之介の名が初めて見受けれるのは、
儂が信長様に播磨国の攻略を命じられて官兵衛が城主をしておった姫路城を拠点とした際に、
市松や虎之助と同じくして儂の馬廻衆の中に『大谷平馬』としてその名があるんじゃわ。

信長様がまだご存命だった時代に紀之介はあまり表立った活躍っちゅうものはしておらんのじゃが、

天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変にて信長様が亡くなられ、
儂が織田家の中で台頭してくると、合わせて紀之介も表に出てくるようになる。

賤ヶ岳の戦いでは当時の長浜城主であり、柴田勝家様の甥に当たる柴田勝豊殿の調略を行い、
これを見事成功させた。

天正13年(1585年)には儂が関白に就任したのに際し、
紀之介は『刑部少輔』に任じられ、皆が知っておる『大谷刑部』の名になったのじゃ。

そしてこの時に家紋も元々は違い鷹の羽であったのを対い蝶にしたのじゃわ。

天正17年(1589年)には儂が紀之介に敦賀の地を与え、ここから紀之介は敦賀城主となり敦賀を治めることとなり、

翌年の天正18年(1590年)には小田原征伐にも参加し、多くの功績を残した。

じゃが、儂がこの世を去ると、紀之介は徳川殿と三成の間に挟まれてしまうこととなるのじゃ。

関ヶ原にて西軍に

儂の死後、利家と徳川殿の仲が険悪になり、徳川殿の屋敷を奇襲するっちゅう噂が立った時には、

市松(福島正則)ら武断派と呼ばれる者たちと共に徳川殿の警護に当たっておる。

このように紀之介は実は徳川殿とも仲が良く、佐吉のように急に仲が悪くなっていったというわけではないんじゃな。

じゃが、なぜ紀之介が佐吉側である西軍に付いてしまったか。
それは、紀之介と佐吉との間には深い絆があったからなんじゃわ。

これは有名な話ではあるわな。

紀之介は業病(現世ではハンセン病と言うわな)を患っておった。
大坂城で儂が主催する茶会に出席したときに吉継から渡された茶碗を誰もが飲もうとはしなかった。

じゃが佐吉はそんなことは一切せずに口をつけ、一気に茶を飲み干した

っちゅう話が後世に語り継がれるぐらい、佐吉と紀之介はどえりゃあ絆で結ばれておったのじゃ。

故にその恩やさまざまな恩を返したいっちゅうことで西軍についた訳ではあるんじゃが、、、

結果的に関ヶ原の戦いは徳川殿率いる東軍の勝利に終わった。
紀之介はこの戦いにて自害を致し、その首は関ヶ原に埋められたっちゅう話もあるらしいのじゃが、、、

儂はもうこの戦いの話はしたくないでの、、、

紀之介の享年は36。
紀之介の血筋は信繁に嫁いだ紀之介の娘が子孫を残し、今でもその血筋は仙台真田家で続いているそうな。

まとめ

此度の日記帳はこれにて終いじゃ!

友情の為に戦い、華々しく散った紀之介の話、どうじゃったかの。

次回は堺の商人の子供から武将になった男『小西行長』について紹介いたすぞ!!

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