【第一回・将軍直伝の寺子屋】〜儂、徳川家康の一生を語ろうぞ(後編)〜

日記

【第一回・将軍直伝の寺子屋(後編)】

コロナなる流行病にて遠方にはいけなくなった

定期的に江戸(渋谷・道玄坂)にて開催しておった「schoo」なる学び舎での講義も叶わぬ

さりながら、伝えたきことは依然あり、伝える法はどれだけでもある現世

ではこの際形を変えて皆には復習を兼ねて振り返り講義を届け、

流行病収束の暁には、皆がよりわかった状況で講義が受けられるよう

ここに記して参る

叶えば連続十二講座をまとめて参るでな、しっかと愉しむがよい

本講義(前編)

まずは、二年前の本講義にて儂自身について皆に印象を聞いたが

天下人。

江戸幕府。

たぬきオヤジ。

(誰が狡猾な老獪武将じゃ…)

等であった

 

多少の誤解があると我が自身が感ずるところは置いて

うむ、儂のことは少しは知っており

全く儂のことを知らぬものも少ないと感じた

 

さりながら、「徳川家康」知らずとも

これをきっかけに知る者にも愉しめ

さらに、深く知りたい者にも興味深い内容に致して参るでな

我が人生 前編(生誕〜30歳)

第一回の講義前編を見たき者は、下記へ参れ

【第一回・将軍直伝の寺子屋】〜儂、徳川家康の一生を語ろうぞ(前編)〜
これは現代に蘇った徳川家康公が直々に昔のことをお教えくださる講義をまとめた記事です。天下人の叡智に触れてください。

我が人生 後編(30〜死去)

さて、徳川家康の人生後編へまいるぞ

有名な出来事がこれよりは多く登場するでな

 六、本能寺の変(40歳)

後編の最初は、いきなり

。。。期待が高まりますねぇ!

本能寺の変である!

出ましたね!!!!

信長燃えるやつじゃん。

天下を収める寸手のところで、時の最大権力者であった

織田信長殿が、謀反にあったのじゃ

織田家の中でもっとも信長殿に近しく、最有力者であった明智光秀殿が

こう申したそうじゃ

敵は本能寺にあり!!!。

それは儂に言わせよ…

 

じゃがその通りである

(あの人空気読まずにはいってきたな。。。)

信長殿がこの世を去った報は各地に伝えられたが、いち早く報せをうけたのが

 

儂、徳川家康であった

なにせ信長殿に会ったのち、本能寺からほど近い堺(大阪府)に物見遊山(観光)をしておったのじゃ

茶屋四郎次郎という我が家臣であり、本能寺があった京(京都府)で商人をしておった者が命がけで馬を走らせ来た

「殿!織田様、急死にございます!明智様の謀反でござりまする!!!!」

なんと!!!!

それも儂に言わせよ…。

また入ってきたよあのひと。。。でもなんかクセになってきた

儂は軍勢を全く引き連れておらず、急遽数十人の手勢のみで、我が城(愛知県)まで逃げのびなくては行けない窮地に立たされた

なんせ信長殿の同盟相手であった儂、徳川家康は明智光秀の第二の標的であったでな

に、にげて〜家康さま!

結果は、

先ほどの茶屋四郎次郎の道中の計らいや、本多忠勝らの護衛、そして服部半蔵に呼応した伊賀者の導きにより、無事岡崎城に着くことができたのであった

 

九死に一生をえたわけじゃ

助かってよかった涙!

これは後に「神君伊賀越(しんくんいがごえ)」とされる

 

儂は、桶狭間の時と同様、一度は自決をと考えたが

家臣たちの引き止めのおかげで踏みとどまることができた

 

振り返り見れば、有難きことで在る

 七、関ヶ原の戦い(58歳)

本能寺の変で生き残った儂は、

後に小牧長久手の戦いにて羽柴秀吉(はしばひでよし)殿、のちの豊臣秀吉(とよとみひでよし)殿と合戦をするなど大きな難局を越えた

 

その後に、豊臣政権の中心人物として日本の国全体へ影響力を高めていく

 

その過程で、時の天下人だった豊臣秀吉がなくなり、逝去直後より秀吉殿にかわって朝鮮出兵の中止やその後の重要な決断を、落ち着きを取り戻すまで一手に担当することとなった

混乱した時は実力者の即断即決が大事ですね。現代のビジネスも一緒です。

そして、次第に豊臣家は徳川派と反徳川派の二つに別れ、
最後には大きな戦となった
それが。。。史上最大の。。。合戦である。。。

。。。

天下分け目の。。。「せ」から始まる。。。

。。。

 

 

。。。そこ、いわんのかいっ!!!!

。。。関ヶ原の戦いじゃ

この合戦は、秀吉殿の死後発生した豊臣政権内部の政争に端を発したものである。
毛利輝元を総大将とし宇喜多秀家や石田三成らを中心に結成された反徳川の西軍と、
儂徳川家康を中心に構成された東軍の両陣営が、関ヶ原での戦いを含め、各地で戦闘を繰り広げたのじゃ
結果は、我が東軍の大勝利

ですね。勢力の数は互いに8万人強だったけど、蓋を開けてみたら圧勝でしたね〜。

歴史的な合戦は、なんと半日で決着がついた

すぐに終わったのね!知らなかったわぁ!

この戦役の結果、豊臣政権は統一政権の地位を失った一方、勝者である徳川家は強大な権力を手に入れ、幕藩とよばれる体制確立への道筋が開かれることになる

 八、江戸幕府(61歳)

儂は一六〇三(慶長八)年、全大名に対する指揮権の正統性を得るため

征夷大将軍の宣下を受け、江戸に幕府を開いた

よっ、将軍!

上様!!。

この時代の印象が強いわよね、家康って。

 

 

関白ではなく征夷大将軍を選んだのは、同じ官職制度のなかで豊臣秀頼殿と競うのを避け、いち早く豊臣政権から独立し、諸大名を戦争に動員し、指揮する武家の棟梁としての正当性を得るためであったのじゃ

儂は、全国の諸大名に江戸城と市街地造成の普請を命じて主従関係の確認を進め、また一六0四(慶長9)年に国単位に国絵図と郷帳の作成を命じて、全国の支配者であることを明示した

 

東海道・中山道など主要街道の施設を整備し、京都・伏見・大坂・堺・長崎などの都市や港を直轄地にした。また石見の大森、但馬の生野、佐渡、伊豆の金、銀山も直轄にするなど、全国統ーの政策を着々と進めたのじゃ

 九、大坂の陣(74歳)

「大坂冬の陣・夏の陣」はのう、わが江戸幕府の徳川家と大坂城を拠点とする、すでに23万石の一大名となった豊臣家との間で行なわれた合戦じゃ

一六一四年(慶長十九年)の冬の戦いを「大坂冬の陣」、一六一五年(元和元年)の夏に再開された戦いを「大坂夏の陣」と申すとな

「関ヶ原の戦い」以降、天下の覇権を握った儂にとって、豊臣家の存在は脅威であった

儂は、元天下人の自尊心が豊臣家を滅亡に導く可能性を忠告したが、それも叶わなんだ

公儀(幕府)の意思に背く豊臣家とは戦、潰すしかほか無く戦った

結果は、我が方のこれまた大勝利じゃ

こうして、この国から全ての戦(いくさ)がなくなったのじゃ!

 十、死去(75歳)

 

 

こうして、応仁の乱以降100年以上続く戦乱の世は、終止符を押された

儂、徳川家康は多くの戦国武将や戦の犠牲になったものたを代表して、天下太平を築くことができた

大願成就であり、誠にありがきことである

なにより、安堵いたした

それがあってか儂は急遽大坂の陣の後に体を壊し、74年間健康保ち続けてきた体はついに蝕まれ、発症数ヶ月後に命を落とした

儂は死んだ後に東照大権現と言う神となり、死してもなお、日の本を明るく照らし続けるものとして、存在続けることができた

そして、400年後現世によみがえってからは、儂が築いた江戸時代は永きにわたる泰平の世の礎となったことを知った

それは人類が文明を起こして以来、最も長い260年以上の長きにわたるものであると聞き、儂は誠に嬉しく感じた

このようにわが人生の中では最後の1年を除いて、戦やそれにまつわるものに多く苦しめられてきた

 

さりながら、最終的にはそれらをすべてを払拭することができ、天寿を全うし、天職をやり尽くした人生を終えることができた

皆皆もこの儂の人生を一つの学びであると捉え、それぞれが納得いくものを歩んでいってほしい

と言うことで

以上、徳川家康の一生であった

本日も健やかなる1日を過ごすのじゃ

また会おうさらばじゃ!!

家康公、ありがとうございました!

空気読めるように精進します〜。

ありがとうございました!

わたしも、やる気が湧いてきたわ!

是非、人生の羅針盤にしよっと!

家康

コメント

  1. 相州姥桜 より:

    将軍様、此度の講義もありがとうございました。

    一点!どうしても気になる誤植が…!
    『東証大権現』だけはご訂正下さりませ~(^o^;)(株取引にご利益がありそうですが)

    思えば『徳川家康』の名前は知っていても、お若い頃のご苦労や、幕府を開かれた志等、知られていないことが多く御座いました。
    改めてご本人からお話頂ける幸せを感じ入っております。
    話中のKYな姫の如く合いの手を入れたくなるのを堪えつつ(笑)
    次回の講義も心待ちにしております。

    • 相州姥桜 より:

      早々のご対応、痛み入りましてございます。
      無作法、何卒お許し下されませ。

  2. より:

    そこ、言わんのか~い(ツッコミ

    此度の日記
    配信のような展開で親しみやすくとても面白かったです。

    家康様が続けていらした講義は
    一旦お預け状態でありますが

    配信というかたちで相見える可能性はリアルイベントに比べれば高いかなと期待しています。今のこの、困難余りある状況にあって『徳川家康公』の生きざまに学ぶことは多いと思いますのでしっかり学びたいと思います。

  3. ナオ姉(おなお) より:

    家康様、こんばんは!

    他の方の返文にもございますが……「細かい( ・ε・)」とお叱りを頂戴するやもしれませんが、どうしてもこれだけは突っ込ませてください。家康様、「“東証”大権現」になっております…資産運用しそうな感じです…(笑)。
    ついでに、目次の一行目と、目次の次の副題は「本題“(後編)”」とお書きになりたかったのかなぁ、と、完璧に見える家康様のうっかり将軍な部分も見えてなんだか嬉しくなってしまいました(笑)。お会いできずとも、お変わりないご様子が見えた気がして(*´ω`*)

    江戸との行き来はしばらく厳しそうですが、思えばschooも最初はリモートでしたよね。流行り病の中でも、家康様のことですから色々お考えがございましょう。きっとこの日記での講義も、そのひとつですよね。受講生?のコメントも入って読みやすい構成、十二回続くとのことでこの先も楽しみにお待ちしております!

    本日もお疲れ様でした(*^_^*)

  4. 香織 より:

    幼い頃から悲しい事も辛い事もあって解っていてもくじけそうになったりする気持ちとかもあったんじゃないかなって感じますけど
    困難があっても越えて行けたのも自分自身だけじゃなく周りの家臣の方だったり地元の人々だったり戦いの無い平和な毎日になってほしいっていう同じ想いを持ってその志の力になりたいって想う気持ちが家康様の想いに皆の想いもたくさん重なって形に出来たのかもって想います(〃’υ’〃)☆歩んで行く道の中で皆の想いを繋いで行ったのかもしれませんね(〃´υ`〃)☆

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