【第一回・将軍直伝の寺子屋】〜儂、徳川家康の一生を語ろうぞ(前編)〜

日記

【第一回・将軍直伝の寺子屋(前編)】

コロナなる流行病にて遠方にはいけなくなった

定期的に江戸にて開催しておった「schoo」なる学び舎での講義も叶わぬ

さりながら、伝えたきことは依然あり、伝える法はどれだけでもある現世

ではこの際形を変えて皆には復習を兼ねて振り返り講義を届け、

流行病収束の暁には、皆がよりわかった状況で講義が受けられるよう

ここに記して参る。叶えば連続十二講座をまとめて参るでな

しっかと愉しむがよい

本講義(前編)

まずは、二年前の本講義にて儂自身について皆に印象を聞いたが

天下人。

江戸幕府。

たぬきオヤジ。

(誰が狡猾な老獪武将じゃ…)

うむ、儂のことは少しは知っており

全く儂のことを知らぬものも少ないと感じた

さりながら、「徳川家康」知らずとも

これをきっかけに知る者にも愉しめ

さらに、深く知りたい者にも興味深い内容に致して参るでな

我が人生 前編(生誕〜30歳)

 竹千代、誕生(0歳)

儂は、今の愛知県の三河地方に小さな大名の子供として生まれた

名は竹千代(たけちよ)

かわいいじゃん。

当時最も勢いのあった今川家の後ろ盾を得ながら、なんとか隣国の織田家に対応しておった弱い立場ながらも領民を命をかけて守る家であった

(尾張と三河が愛知県、遠江(とおとうみ)、駿河(するが)が静岡県)

生まれた頃からこのような不安な状況下、責任のある立場として存在しておった

よく、大名の子供でよい生活をしておったとされるが、それは勘違いじゃ

贅沢をすることもなく、むしろ武家に生まれたからこそ三歳のころより母上(於大の方)と生き別れるなど苦しきことが多かった

 

それでも前途多難な人生を背負うだけの強さを与えるべく

周りは儂に色々な期待とともに教育をしようと心がけておった

 十三年の人質生活(6歳)

母上と生き別れながらも、皆の期待に応えようと剣術稽古などは特に励んでおった6歳の頃、父上にある時呼ばれた

松平広忠(父上)「竹千代よ、これより今川方へ人質として行くがよい。弱き我を憎むでない。世がそうさせるのじゃ。健やかにそして都に負けぬ駿府にて立派に松平次期当主として育つのじゃ。」と送られた

その時は童ながらにことの重大さと父上の無念、そしてさらなる苦境を迎える覚悟が必要であると思うた

なにより、もう母上に会えぬ(可能性が高まった)と思うは辛き事であった

・・・

泣けますね…。

因みに人質にだされると申しても「牢獄(ろうごく)に入る」「幽閉(ゆうへい)され閉じ込められる」などは一切ない

むしろ儂の場合は、その当時随一の勢い(高い経済、文化、教育水準)があった今川家の一門に近い待遇をうけ、英才教育にて育てられたもんじゃ

・・・

ゆえに、そんなに大きな不安はなかったのじゃが、なんと!

人質の儂竹千代は、二人目の母上の父であった戸田康光に騙されて!!

知りませんでした!

「叔父の戸田 父を裏切り 織田方へ 売るは竹千代 大金(おおがね)、五百」

なかなかいい句よみますね家康公。

要る?その俳句か短歌かしらんけど。。。

結果、我が一行は織田信長殿の父がおさめていた今の名古屋、尾張に結局、かわらず人質として売られてしまった(今の貨幣価値で一五百万円程である)

 桶狭間の戦い(18歳)後に清洲同盟

人質生活は実に十三年に及んだ

その間、無事に人質交換によって晴れて駿府に

後に、美しい今川家の姫、瀬名を娶り今川家の一門に正式に迎え入れられた

これは誠に誉なことであったが、故郷に残してきた三河の領民を思うと複雑な気持ちではあった

そして十五歳で元服(成人)を果たし、婚儀を済ませ、武士として初陣も果たすきっかけとなったあの戦が

桶狭間の戦いである

まってました、桶狭間!!

儂は無論、今川方についており実際に織田軍との接触はそれ以前にもあったが、我が松平軍は負けたことがないのじゃ

この桶狭間の戦いの前哨戦でも快進撃を続けておった

しかし、ここで大事件が起こった

今川義元様が討たれたのじゃ

皆が合戦を思い浮かべると物騒極まりない

殺し合いじゃとは思うが

実際にどんなに人が死ぬ戦でも半分死者が出ることはない

しかも今川義元様のような大将の中の大将が命を落とすことは

ありえぬ話であった

けっこう負傷者も出なかったんですね、きっと。

さりながら見ての通り、織田信長殿の快挙と言われておるが

今川軍の負けであり、大壊滅であった

・・・

桶狭間の合戦の数年後、儂は一つの決断をした

今川家から離れ、戦国大名として名乗りをあげると!

そこで儂が同盟相手に選んだのがあろうことか

織田信長殿であったのじゃ

 徳川家康に…(24歳)

儂は子供の頃は「松平竹千代」であったが

そのあと「松平元信(もとのぶ)」そして「松平元康(もとやす)」と名乗っておった

しかし、元は今川義元様から賜った一文字

名実ともに独立した儂にはすでに相応しくなく

朝廷の許しを得て、「徳川家康」と新たに源氏の流れを汲むものとなった

 

へえ、24歳でようやく徳川家康に変身したんだね。

 五、三方ヶ原の戦い(30歳)

織田徳川の同盟は良好に続き、織田信長殿は東を我が徳川に任せ、織田家は西へ西へと勢力を拡大していった

儂は、武田信玄率いる東からの脅威をなんとか牽制しながら領国経営に精をだしておった

正直に申せばこのまま大きな変化がなければ、西の同盟者織田信長殿と東の同盟者武田信玄殿とうまく関係を保ちながら徳川家は安泰かとおもいきや

・・・

武田信玄は儂をあざけわらうかのように簡単に裏切ってきおった

それもそうじゃ

武田信玄にすれば儂はただの経験の少ない一回りも二回りも小さい大名

怒りをぶつけてきたとてなんともないで、あっさり我が領地へ侵攻をしてきおった

ぎゃ〜〜〜〜!

武田信玄の方が強いからな当時は。

じゃが、そこでおびき出される儂ではない

そうなの?(ほっ)

信長殿の援軍を借りて持ちこたえること位はいくら最強武田軍が相手とて

我が三河兵卒は非常い強かったが故に問題なくできた

じゃが

ここでまたも儂の想像を超える出来事が我が人生そのものじゃ

今回は、勝手に家臣たちが戦を始めてしまい

直接不利な状況で夜戦となれば、武田相手に我が徳川は

赤子が手をひねられるようなもの

悔しいかな大敗を喫した

命からがら帰った儂は刹那糞をもらすほど余裕がなかったでのう

こんな恥ずかしき、そして多くの家臣を死なせてしまった惨劇を忘れぬように

戒めとして

あえて情けない姿を絵師に描かせ、生涯いましめとして傍(かたわら)においたものじゃ

これを人は「しかみ像」と呼ぶ

勉強になります、師匠!

次回は! 我が人生 後編(30歳〜死去)

次回は、我が人生の後半戦!

主らの人生に指針になろうぞ

学んで、よければ羅針盤にしよっと。

家康

コメント

  1. 相州姥桜 より:

    家康様
    お懐かしや、schoo!
    巧く繋がらぬカラクリと格闘しながら受講しておりました。
    将軍自ら語る人生、興味深く聞き入っておったことを思い出します。
    改めて文字にしていだだき、受講時の雰囲気も醸しつつの復習を体験出来るのですね。
    嬉しゅうございます。
    次回も楽しみです。

  2. 霞―KASUMI- より:

    家康さまが語るお話(≧▽≦)
    中でも戦国の世から太平を作られる歴史のなかで。家康さまご自身がなされた数々。。。。

    更には連載!?(≧▽≦)

    これはもう。私の大好物にございます(≧▽≦)

    日記帳も新しゅうなりましたし。
    「原点回帰」といったところにございましょうか!?

    この先々の新たな基盤づくりとも!?

    。。。

    寺子屋よろしく
    私もRISAの切りぬきも紐解きながら、しっかり復習したいと思います。

  3. 香織 より:

    文字に起こされたものを目で読むとまた文章から想像出来たり考えたりして画が浮かぶからこうした形での講義も良いですね(〃’υ’〃)☆
    家康様の通って来た道を解りやすく話して下さるから読んでいても楽しいです(〃’ω’〃)全12回の予定みたいですけど更新楽しみにしてますね((〃´∇`〃))♪

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