織田家臣団30人毎日紹介 ~服部小平太編~

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皆の衆、こんばんはじゃ!
豊臣秀吉である!

儂、豊臣秀吉が織田家臣団を30人紹介する日記帳
此度は服部小平太(一忠)殿について紹介して参る!

服部小平太殿の概要

服部小平太殿の名が最初に出てくるのは、
皆も良く知ってるであろう信長様の戦、「桶狭間の戦い」から出てくる。
その桶狭間の戦いに小平太殿は信長様の馬廻り衆として参戦し、今川義元殿の股を槍で突くという1番の活躍をしたんじゃ。

しかしながら、その際に義元殿の反撃で膝を斬られてしまったが故に義元殿の首は取ることができなかった。
(義元殿の首を取った者は毛利新介殿である。)

その後はあまり織田家の中で目立った活躍などはしておらなかったが、本能寺の変にて信長様が亡くなられた後には儂の馬廻、黄母衣衆として仕えたんじゃよ。

小田原攻めで活躍した小平太殿に儂は伊勢国一志軍3万5000石を与え、その際に松坂城の城主にもなった。

しかしながら、松坂城主となった折に儂の甥である豊臣秀次に付いておったが為、秀次と儂との対立に巻き込まれ儂は小平太殿の所領を没収し、また切腹を命じてしまったのじゃ。

服部小平太殿を秀吉が褒める

小平太殿の1番の大手柄は今川義元殿に重傷を負わせたことで首を取ることが早く出来るようになったこと。

信長様が生きておられた頃は儂や多くの家臣が手柄を取っておったが故に大きな活躍はあまり出来なかった。
しかし、儂に仕えた後は人が変わったかの様に多くの手柄を取ってきた故、儂自身もどえりゃあ信頼しておったんじゃが、

秀次の件で切腹を命じてしまったのは、その、あれじゃ。
なんじゃろうなぁ。

まとめ

さて此度の日記帳は以上となる!

現世での小平太殿の資料はこれと言って良い程、あまりににゃあでな。
謎に包まれとる者かも知れぬ。
しかしながら、儂や利家と共に戦場を駆け抜けた者でもあるで儂は今だにあの日の小平太殿を覚えておる。

また機会があれば話そうと思う。

次回は万見重元(仙千代)殿について紹介致す!

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