皆の衆、こんばんはじゃ!
豊臣秀吉である!
儂、豊臣秀吉が織田家臣団30人を毎日紹介する日記帳
此度は万見重元(仙千代)殿について紹介して参る!
重元殿の概要
万見重元殿は、
殆どの書物に幼名で記載されている為に「重元」という名ではなく
「仙千代」と言う名で知られておるんじゃ。
信長様の小姓という立場ではあるが、信忠様にもお仕えしておって、他の大名や家臣との取次や、奉行として政務などを執行し、戦場では主に検使の役を務めた者でもある。
実は儂ともちゃんと関わりがあってな
信長様と儂との間で書状を持参するなどの行動もしておったのじゃ。
また天正6年(1578年)には西国に向かう儂の元に信長様から派遣されて
多くの戦での情報を信長様に報告をしておった。
しかしながら、重元殿は信長様と荒木村重殿との争いである「有岡城の戦い」にて堀秀政殿、
菅屋長頼殿らとともに鉄砲隊を指揮し石垣近くまで迫ったのじゃが、
この戦いで戦死をしてしまった。
自ら塀を乗り越えようとした際に、敵軍の者に長刀で突き貫かれたのじゃ。
重元殿を秀吉が褒める
信長様の小姓と言えば、
この日記帳にて最初に紹介した「森成利(蘭丸)」殿が当たり前のように有名じゃが、
信長様には成利殿だけではなく多くの小姓がいたんじゃ。
重元殿もその1人で、この者もやはり信長様、信忠様のお世話だけではなく
戦場に出て信長様の為に駆け回った者。
故に儂は重元殿の方が成利殿よりも有名になった方が良いと思ってるのじゃが、
本能寺で信長様と共に倒れた、という「私、主君と一緒に死にました!」みたいな強い話には
勝てないんじゃな。
まとめ
さて此度の日記帳は以上じゃ!
先程も書いた通り、信長様は成利殿や重元殿の他にも多くの小姓を抱えておったで。
もし誰がいるのかと気になった者は是非調べてみると良いぞ?
もしかするとこの者、少し好きになるかも、みたいなことがあるかもしれんでな。
次回は毛利新介(良勝)殿について紹介致す!
コメント