織田家臣団30人毎日紹介 〜金森長近編〜

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皆の衆、こんばんはじゃ!
豊臣秀吉である!

儂、豊臣秀吉が織田家臣団30人を毎日紹介する日記帳
此度は金森長近について紹介して参る!

長近の概要

金森長近は、
大永4年(1524年)に金森定近殿の次男として、美濃国に生まれた者じゃ。

父である定近殿は土岐氏の後継者争いにて土岐頼武様を支持しておったんじゃが、頼武様が土岐賴芸様に敗れて失脚してしまった。

このため、定近殿も程なくして美濃国を離れ、近江国は金森へと移住をしたんじゃ。

長近も定近殿に着いていき、天文10年(1541年)までは近江国で過ごし、齢18に近江国を出て信長様の父上である織田信秀様に仕官をし、跡を継がれた信長様にもそのままお仕えをしたのである。

信長様に仕えた後には、長篠の戦いにて徳川殿の配下である酒井忠次殿の3000騎と共に織田軍5000騎を率いて武田勝頼殿の背後にあった砦を陥落させ、見事、武功を上げたのじゃ。

この戦後に信長様から「長」の1字を授かり、「長近」と名乗った。

信長様が亡くなられた後は柴田勝家様の側についておったんじゃが、
賤ヶ岳の戦い後には儂の配下に入っておる。

配下に入った後には儂の幕下として、小牧長久手の戦いや多くの戦に参陣。

儂が死んだ後には徳川殿の配下となり、
関ヶ原の戦いにも参陣しておる。

して齢80になった頃に隠居をし、
慶長13年(1608年)、京は伏見にて亡くなったのじゃ。

享年85であった。

長近を秀吉が褒める

長近は、
儂の配下の頃に飛騨国を攻めさせたんじゃが、それが成功しての、
儂は長近に飛騨一国を与えたのじゃ。

その際に飛騨国は高山(現在の高山市)を拠点として、高山の街づくりを行った。
故に今の高山の街並みが見れるのは長近のおかげということなんじゃ。

まとめ

さて此度の日記帳は以上である!
長近も信長様から儂に仕え、徳川殿にも仕えた戦国の世を生き抜いた者。
故に長近をもっと知りたき者は是非、沢山調べて見てちょうよ!

次回は古田重然(織部)について紹介致す!

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