織田家臣団30人毎日紹介 〜河尻秀隆編〜

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皆の衆、こんばんはじゃ!
豊臣秀吉である!

儂、豊臣秀吉が織田家臣団30人を毎日紹介する日記帳
此度は河尻秀隆殿について紹介して参る!

秀隆殿の概要

河尻秀隆殿は、
大永7年(1527年)、美濃国で生まれた者である。

秀隆殿は最初、信長様の父である織田信秀様にお仕えをし、初陣は齢16の頃の天文11年(1542年)
今川氏と織田氏との間で起こった「第1次小豆坂の戦い」であるのじゃ。

そしてその後の天文17年(1548年)には、
第2次小豆坂の戦い」が起こっているのじゃが、これにも秀隆殿は参陣をしておる。

故に秀隆殿は信秀様にお仕えしておった時から多くの戦に参陣し、
織田家の中でそれなりの地位を確立しておったと言うこと。

信秀様が亡くなられた後は、織田家が信長様派と信勝様派に分かれてしまったのじゃが、
秀隆殿は信長様にお仕えをする。

弘治3年(1557年)には信長様と家督争いをしておった信勝様を暗殺したのも秀隆殿なのじゃ

その後、秀隆殿は信長様に従って多くの戦に参陣し、武功をあげていく。
して永禄10年(1567年)には「黒母衣衆」の筆頭に抜擢されておるのじゃ。

長篠の戦い」にて信長様が武田氏に勝利をすると、信長様は「甲州征伐」を実施。

これにより甲斐武田氏は滅亡し、その旧武田領地に秀隆殿は入ったのじゃが、
そこで威圧的な政治を行なってしまう。

故に、信長様が本能寺にて倒れられ、それが甲斐国内にも知られると、それまで秀隆殿が統治に利用してきた信長様の権力と言ったものが使えなくなってしまったことにより、
秀隆殿に反感を持った者たちによる一揆の危険が高まってしまった。

そこで、徳川家康殿が甲斐国内外に秀隆殿を脱出させようとして、
自身の家臣である本多信俊殿を遣わした。

しかしその誘いに秀隆殿は乗らず、逆に徳川殿がこの本能寺の変の混乱に乗じ、
甲斐を奪おうとしていると考えたのじゃ。

そこで秀隆殿は信俊を殺害してしまった。

しかし、この行為に怒った本多信俊の一族は秀隆殿の統治に不満を持っていた者たちを焚き付け、
結果として一揆が勃発。

その騒動で秀隆殿は武田氏の遺臣に討たれてしまったのじゃ。

享年56であったそう。

秀隆殿を秀吉が褒める

秀隆殿は信秀様、信長様の2代にお仕えしてきた織田家にはならなくてはなかった存在の者。
故に甲斐の統治も「信長様の日ノ本統一の為」と言う思いが強かったんじゃろうなあ。

その忠義心は認めるが、無理な統治をしたのは、儂は擁護は出来ん。

しかしながら、黒母衣衆の筆頭となったことと言うのははどえりゃあ凄い武人であった証拠。
儂も見習わなければいかんところもあると思う。

まとめ

さて此度の日記帳は以上になる!

本能寺の変が起きなければもしかすると有名になっていたかも知れぬ秀隆殿。
そんな秀隆殿を皆は名前だけでも覚えてちょうよ。

次回は平手政秀様について紹介致す!

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