皆の衆、こんばんはじゃ!
豊臣秀吉である!
儂、豊臣秀吉が織田家臣団30人を毎日紹介する日記帳
此度は林秀貞様について紹介して参る!
秀貞様の概要
林秀貞様は、
永正10年(1513年)に尾張国に生まれたお方であり、
最初は父である林通安様と共に織田信秀様にお仕えし、
織田軍のまとめ役として信秀様の信頼を勝ち取り、重臣となったのじゃ。
その後、幼少の信長様に那古野城か与えられると、
昨日紹介致した平手政秀様と共に1番家老として信長様の家臣となったのじゃが、
信長様の奇行に秀貞様も頭を痛めており、天文21年(1552年)に信秀様が、天文22年(1553年)に政秀様が亡くなられると
信長様の弟君である織田信勝様を当主にしようと画策をするようになった。
しかし、家督争いの末に起こった稲生の戦いにて信勝様が信長様に負けると、
秀貞様は同じく信勝様側に付いておった柴田勝家様と共に信長様に許され、以降は宿老の立場となった。
その後は織田家の筆頭家老として外交や行政面などで活躍し、
武将と言うよりは政治家として信長様の評価を得るようになったのじゃが、
ここで秀貞様は突然、信長様に追放を命じられてしまう。
この追放の理由は儂も良く分かってはおらぬ故に、秀貞様も驚きを隠せなかったと思われる。
追放後は京の都に移住をし、南部勝利と改名をしたり、
安芸国に身を移して余生を過ごしたのじゃが、
追放された時が既に高齢だったこともあったが為に追放後の2年後、天正8年(1580年)に亡くなってしまわれた。
享年は68であったそう。
秀貞様を秀吉が褒める
秀貞様は織田家に生涯を通じて忠誠を誓ったお方じゃと儂は思っておる。
じゃが、よく分からない理由で信長様から追放を命じられたことはあまりにも気の毒でしかない。
じゃが、秀貞様の政治家としての実力はどえりゃあ凄い腕前なものだったで。
儂もたくさん真似したところはある。
秀貞様がいなくなった後の織田家は少しだけ、外交が上手くいっていなかった気もしたでなあ。
まとめ
さて此度の日記帳は以上になる!
信長様に最初は反旗を翻したお方という印象が強い秀貞様じゃが、
織田家にはなくてはならない存在でもあったのじゃ。
もし興味があれば調べてみると良いぞ!
次回は織田信孝様について紹介致す!
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