皆の衆、こんばんはじゃ!
豊臣秀吉である!
儂、豊臣秀吉が織田家臣団30人を毎日紹介する日記帳
此度は織田長包様について紹介して参る!
信包様の概要
織田信包様は、
天文12年(1543年)に織田信秀様の子として、尾張国に生まれたお方である。
この方も信長様の弟君であるが歳は9つ離れておる。
じゃがご生母は信長様と同じ土田御前様であり、血の繋がったご兄弟でもあるのじゃ。
永禄11年(1568年)に兄である信長様の命にて北伊勢を支配しておった長野工藤氏に養子入りをして伊勢国上野城を居城としたが、急に信長様がこの養子縁組を解消させ、信包様は織田家に復した。
その後は信長様に従い、
姉川の戦いや浅井討伐に参陣し、
その際に妹君のお市様や茶々、初様、江様を保護しておるのじゃ。
また長島一向一揆や信長様の紀州征伐にも参陣を致しては武功をあげており、
織田家臣でも重鎮の1人として厚遇されておった。
が、ここで兄である信長様が本能寺にて亡くなられてしまう。
この後の信包様は儂に従い、賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いなどに参陣しているのじゃが、
小田原征伐の際に信包様は北条氏政、氏直親子の助命を儂に嘆願した際に儂は怒ってしまい、
そのまま信包様を改易に処しておるのじゃ。
しかし、その後はちゃんと許しており、儂の御伽衆なっておるのじゃ。
儂が死んだ後は、関ヶ原の戦いにて西軍に付くも、
戦後は徳川殿の許しを貰っており、所領は安堵されておる。
じゃが、大坂の陣にて秀頼の補佐に付き、徳川殿と戦っておったのじゃが、
慶長19年(1614年)、大坂城にて軍議中に吐血し、そのまま亡くなられてしまわれた。
享年は72だったとのこと。
片桐且元殿による毒殺の噂が当時は流れておったらしいが、
儂もその時は死んどるが故に今となっては確かめようがない。
信包様を秀吉が褒める
信包様は
信長様が亡くなられたあとは豊臣の為に最善を尽くしたが為に
最後はあのように亡くなっておると儂は思っておる。
もし信包様が毒殺が原因で亡くなっておるのであれば、
徳川殿は関ヶ原の戦いの後に生かしたものは良いものの自分のところへ来なかったので恐れを抱いていたのかもしれぬが、
もし信包様が生きておられれば、豊臣は安泰だったのかもなあ。
まとめ
さて此度の日記帳は以上になる!
昨日紹介いたした長益様と同じく信長様の弟に生まれ、
信長様からも儂からも重用されておった信包様。
同じ境遇でも違うところは違うのじゃな。
次回は池田恒興殿について紹介致す!
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