皆の衆、こんばんはじゃ!
豊臣秀吉である!
儂、豊臣秀吉が織田家臣団30人を毎日紹介する日記帳
此度は丹羽長秀様について紹介して参る!
長秀様の概要
丹羽長秀様は、
天文4年(1535年)に丹羽長政様の次男として尾張国春日井郡に生まれたお方である。
丹羽長秀様の一族は代々、
尾張国守護であった「斯波氏」にお仕えしておった一族であるが、
長政様の代になると斯波氏に代わって台頭してこられた織田氏にお仕えするようになった。
長政様の死後、
小姓として信長様にお仕えするようになった長秀様は当時、齢16であった。
信長様はこの時、齢17であったが故に信長様とひとつ違いの長秀様は
「友であり、兄弟」と言われる程の親密な関係を築きあげたのじゃ。
永禄3年(1560年)、
桶狭間の戦いに長秀様も信長様に従い参陣。
信長様はこの戦いにて今川義元様を討ち取り、勝利したのじゃが、長秀様はその際、信長様より
「共に出陣したことで皆が必死に戦い抜き、ついに今川義元の首を得た」
と労われるほどの活躍を見せたのである。
長秀様はその後も信長様の美濃攻略に際して、
美濃国加治田城城主であった佐藤忠能殿を織田家に寝返らせたり、
稲葉山城攻めでは斎藤龍興殿を敗走させたりし、信長様は見事、美濃国を平定できたのじゃ。
その後も、多くの戦に参陣し、
信長様の信頼を得て重臣となった長秀様は安土城の普請を信長様から命じられた。
故に、信長様の最大の城と呼ばれる安土城は長秀様が約6年をかけて造られた城なのである。
じゃが、そんな約6年かけて造られた城も、信長様が本能寺にて倒れられた後に焼失をしてしまった。
まさに夢幻の城じゃったとも言える。
(儂はこの目で確かに見たがな)
信長様が亡くなられな後は清洲会議にて儂を支持し、
また柴田勝家様と儂が対立し起こった賤ヶ岳の戦いでは儂の方に付き、
勝利に貢献をしてくださった。
しかしながら、その賤ヶ岳の戦い以降、
越前国の自身の居城に籠りがちになってしまい、大坂城が落成した際にも上洛を促したのじゃが、
儂の前には現れなかった。
この時の儂と長秀様には深い溝が既に入っており、それは、まぁ、色々とあるんじゃ。
故に長秀様は天正13年(1585年)に
腹に巣くった寄生虫が原因でこの世を去った。
享年は51であった。
長秀様を秀吉が褒める
長秀様は
とにかく信長様に寵愛されており、
その地位は織田家の中で別格であった。
昨日紹介致した「滝川一益」殿と同じく織田家四天王にも数えられておるらしく、
戦うことにも限らず、城を造ることにも長けておったため、
織田家にはなくてはならない存在じゃった。
故に儂の「羽柴」という姓も、
丹羽長秀様の「羽」の字を1字もらっておるのじゃ!
まとめ
さて此度の日記帳は以上になる!
儂が最も尊敬しておる織田家の中でのお方。
しかしながら、
最後は儂と少し嫌悪になってしまっていたことは事実。
故に長秀様にもう一度会えるのであれば、ちゃんと謝りたいと思っておるでね。
蘇ってきてはくれんかのお。
最終回は柴田勝家様について紹介致す!
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