皆の衆!
こんばんはじゃ!
豊臣秀吉である!
前回、1ヶ月の企画で「織田家臣団」を紹介致したが、
此度は儂に仕えた者たちを紹介して参ろうと思う!
最初は黒田官兵衛から参るぞ!
いざ!
黒田官兵衛の生涯
黒田官兵衛は、
1546年(天文15年)に播磨国姫路で産まれた者である。
幼名は万吉。
父親は小寺政織殿に仕えておった黒田職隆殿。
この官兵衛の父親である黒田職隆殿は小寺家臣の中ではとても有能であって、
「小寺姓」を名乗ることを許された人物でもあった。
故に元々、官兵衛は儂の家臣ではなく小寺政職殿に仕えておったいち武将であったわけじゃ。
1562年(永禄5年)に初陣を果たし、
1567年(永禄10年)に黒田家の家督を継ぎ、
この翌年には嫡男である松寿丸、後の黒田長政が誕生しておる。
このように小寺氏の家臣として動いておった官兵衛じゃが、
ここからこの者の大きな転換となる重要な事がおこるのじゃ。
官兵衛、儂の配下に入る
1570年(永禄13年)からある御方が天下統一に向けて動きだしていた。
それは我が主君、織田信長様。
そして同じように安芸国の大名である
毛利輝元も勢力を拡大すべく動いておった。
故に官兵衛のおる播磨国は、織田家と毛利家に挟まれておったのじゃ。
小寺氏の家臣たちはこの状況において
織田か毛利かどっちに付くかで悩んでおったのじゃが、官兵衛は主君である小寺政職殿に、
「守りの毛利より攻めの織田に付きましょうぞ」
と信長様に味方するように進言。
そして、1573年(天正元年)に小寺氏の使者として
岐阜城にて信長様に謁見し、その際に「へし切長谷部」という刀を拝領したのじゃ。
その後、官兵衛は儂の配下となり、多くの戦に赴くこととなる。
官兵衛、捕えられるが無事に帰還
儂の配下となった後、儂は信長様に「中国攻め」を命じられ、官兵衛はその先鋒となった。
この時に官兵衛は居城としておった姫路城を儂に渡し、
姫路城が中国攻めの主な拠点となったわけじゃ。
そんな中国攻めを行っておる矢先、ある者が信長様に反旗を翻した。
その者とは、荒木村重殿。
官兵衛は反旗を翻した村重殿を説得するべく、
単身で有岡城(村重殿の居城)に向かったのじゃが、
城に入った途端、捕えられ、地下牢に幽閉されてしまった。
その際、説得に行った官兵衛が何ヶ月も帰ってこない事で信長様は
「官兵衛が寝返った」
と思い込み、
儂に松寿丸の処刑を命じたのじゃが、
あれは、流石の儂も判断に迷う命令であった。
しかし、官兵衛と共に儂に仕えておった竹中半兵衛が「官兵衛殿が寝返るわけがない」と儂に言い、
松寿丸を匿い、信長様には松寿丸の首と言いながら、
近くの農村で病により亡くなった童の首を儂と共に差し出したのじゃ。
そして、官兵衛が戻らなくなった日から1年後の1579年(天正7年)、
有岡城は陥落し、地下牢から官兵衛は奇跡的に救出されたのじゃが、
入っておった地下牢は天井がどえりゃあ低く、立てない状況であったが故に、
官兵衛の足腰は弱まっており、また、頭髪は抜け落ちておった。
じゃが、
儂からしてみれば大切な家臣が助かったこと、
そして儂の前に帰ってきた事、
それはえらく嬉しき事じゃった。
その後は、
儂の軍師として多くの戦でその頭の良さを発揮し、
信長様亡き後の儂の天下取りの支えにもなってくれた。
また儂は官兵衛に豊前の地を与え、
九州のいち大名となり、徳川殿の治世になった時にこの世を去った。
享年は59であったそうじゃ。
まとめ
儂と共に戦乱の世を駆け抜けた官兵衛。
この者がおらなければ、儂の天下統一は果てせなかったかもしれん程、有能であった。
故にこの者が儂に謀反を起こしたら、
天下を取れるのではにゃあかと思えた程の戦上手でもあったのじゃ。
じゃが、もう1人、儂には官兵衛と同じくして
有能であった軍師が仕えておった。
次回は竹中半兵衛について紹介致す!
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