皆々、息災であるか
前田又左衛門利家である。
此度の又左草子は、
さんたつの没特集である!!
先にさんたつにて紹介しておった、応仁の乱。
全3回にわたって話して参ったが、
あの戦は難解が過ぎる故書いては省いての繰り返しであった。
ということで此度は、さんたつに入りきらなかった話を紹介いたそう!!
これだけ読むとよくは分からんと思うで、手間にはなるがさんたつを読んでから挑戦いたせ!
協力関係だった山名と細川
宗全殿と勝元殿、実は舅と娘婿の関係で良い関係を築いておった。
当時日ノ本随一の権力を有しておった畠山持国殿を隠居させるなど協力して政を行い発言力を強め、宗全殿が義政様の怒りを買って討伐令が出された折には勝元殿が将軍に諫言してことなきを得るなどその連携の取れた動きを見せておった。
更に宗全殿の子豊久殿が子がいなかった勝元殿の養子に迎えられ、後継にさだめられて、関係をより深めていったのじゃ。
じゃが、円満に見えた両者の関係に影が落ちる。
幕府の重役である管領を長く務めておった勝元殿は、将軍家の意向を汲みながら政を行っておって、勝元殿としては本意では無いことも、義政様の命によって行わざるを得ない場面があったんじゃな。
この姿勢を将軍の言いなりであると宗全殿が反発し、両者の関係には溝が生じ始める。
そこに幕府へ不満を持ち管領である勝元殿を嫌っておった諸大名が宗全殿に近づき、反細川勢力が出来上がってしもうたのじゃ。
勝元殿はその動きを察し、大名を味方につけその勢力を拡大していく山名家を牽制するべく、宗全殿と仲が悪かった赤松家を優遇するなど、対抗の姿勢を強めていった。
そんな中起こったのが勝元殿の嫡男誕生である。
先に話した通り、勝元殿は宗全殿の子を養子にしておったのじゃが、
生まれた我が子に後を継がせたいと考えた勝元殿が養子としていた宗全殿の子豊久殿を廃嫡し出家させたことで、両者の対立は決定的なものとなった。
厄介なのが、当時の京では畠山家や斯波家と言った有力大名達が揃って家督争いをしておって、それが細川派と反細川派の対立に絡んだことで収集がつかなくなって応仁の乱へと繋がっていったというわけじゃ。
親政崩壊から勢力争いに
さて、足利義政様が将軍になったのは8歳の時。
義政様の父上である六代将軍義教様はその苛烈な政策に反発した大名に暗殺され、そのことから将軍が裁量を持ちすぎない方が良いという時代の流れがあった。
そんな背景に加えて義政様が年若いこともあり、将軍ながら守護大名たちや公家衆の言いなりで自らの目指す政ができなかったのじゃ。
この時期に歯痒い思いをした経験があったのじゃろう、成長した義政様はこの体制を変えるべく動き出す。
信用できるものを側近として起用し、その者たちを中心に政を行ったのじゃ!
義政様の思惑通り、一時的にではあるがこれによって山名や細川、畠山らの権力が小さくなった。
じゃがここで大きな問題が発生するのじゃ。
そう!それこそが義政様の後継問題である。
今回の初めに紹介した通り、義政様や富子様、細川や山名は義政様→義視様→義尚様の流れで将軍職を継ぐことで合意していたのじゃが、これを快く思わないものがおった。
義政様の側近にして義尚様の後見人であった伊勢貞親殿である。
義尚様が将軍になれば後見人である貞親殿の地位も上がる、故に義視様を酷く毛嫌いしておった。
如何にしても義視様を退けたかった貞親殿は義視様に謀反の疑いをかけ、殺害を試みたのじゃ。
これを察知した義視様が細川家に逃げ込み、勝元殿や宗全殿が義政様に義視様の身の潔白を示しことなきを得て、この嫌疑をかけたとして貞親殿は京を追われて行った。
さて、義視様からすれば危ないところから逃れられ、一安心と言ったところなのじゃが話はそう簡単ではなかった。
文正の政変と呼ばれるこの出来事によって義政様の側近が追放されたことで、再び守護大名達が力を増し、将軍家が政治から遠ざけられることに繋がったのじゃ。
更にそれまで義政様の側近に対抗する為協力しておった諸大名が、今度は諸大名の中で権力争いが生じてしもうたことで一気に戦へと続いていくこととなってしもうた。
そもそも、畠山家最初の家督争いの折に山名家と細川家が揃って政長殿を支援しておったのは、義就殿を推しておった義政様の側近達に対抗する為でもあった。
畠山持国殿や側近達と言った強大な政敵を相手する為に協力しておったのが、自らが権力を持ったが故に、協力しておった相手すらも邪魔になってしまったのじゃな。
これが一つ大きな出来事であることは間違い無いのじゃが、両家の不仲の原因は他にもいくつもある。
長く管領を務めておった勝元殿は、将軍家の意向を汲みながら政を行っておった。
この勝元殿の姿勢を将軍の言いなりであると宗全殿が嫌っておったようじゃ。
更に幕府へ不満を持つ諸大名の怒りの矛先が管領である勝元殿に向いたことで、反勝元の勢力の長に宗全殿が自然と収まったという見方ができるわけじゃ。
他にも子がいなかった勝元殿は宗全殿の子を養子とし後継に定めていたのじゃが、その後に子が生まれて為宗全殿の子を廃嫡するという、これまたよく見た不仲の原因もあったりも致す。
故にこの文正の政変のせいで争いが起きたというよりも、側近達に対抗することで何とか関係を保っていたという方が事実に近いであろうな。
終いに
ということで!
此度はさんたつの裏側を語って参った!
さんたつは月に二度ほど公開しておって、わしが100名城巡りの旅と並び力を入れておる!
実はあまり読んだことがないよという者は挑戦致すが良い!
さんたつ、前田利家なんかで調べれば出て参るであろう!
次の日記帳は100名城の旅を記す予定だで待っておれ!
それではまた会おう、
さらばじゃ!!
コメント
利家さま
こんばんは~
日記の更新ありがとうございます
さんたつに日記と読みました~
何度も読んで読んで理解するタイプ
まだまだ読み込みが足りませんが(^^ゞ
「応仁記」をポチとしました(笑)
いつでも読めるなんて考えず届いたら開きま~す
盆踊りクラウドファンディングが目標達成しましたね
おめでとうございます
櫓の上での踊る姿を楽しみにしてます
加賀様
日記の更新有難う存知ました。
さんたつ並びに日記を翫味熟読致しました。
応仁の乱…国営放送の大河ドラマ「花の乱」で取り上げられておりました。
実は私、野村萬斎さんが推しですので、野村萬斎さん演じる細川勝元がお目当てで見ておりました(因みに山名宗全役は故萬屋錦之介さんにございました)野村さん演じる勝元は、目線と言い声の使い方と言い完璧に戦国武将に成りきっていて、見た甲斐がございました。しかしながらこの応仁の乱…登場人物が多過ぎて、誰が味方で誰が敵か?分からないまま野村萬斎さんの出番が終わってしまいました😅
故に加賀様があげて下さった応仁の乱に関する日記は大変分かり易く、これから先も何度も読み返したく存知ました。
東海地方も梅雨に入った由…加賀様に於かれましても体調等崩されませんよう御自愛下さいませ。
それではこれにて…ご機嫌よう
利家様こんにちは
お知らせありがとうございます!
ちょうど休憩中だ、わーい!と思って読み出しましたが途中で諦めました笑笑
帰宅後またじっくり読みます。その時はさんたつも合わせて。
超大作ですがこれでも全体図ではないんでしょうね〜
とりあえず仕事に励みます
さんたつも日記帳も毎回楽しみにしていますのでこれからも頑張ってくださいね!
ではまた