新太閤記 〜 金沢探訪 〜

日記

皆の衆!
こんばんはじゃ!

豊臣秀吉である!

先ずは、
此度の日記帳を書く前に皆に伝えなければいけないことがある。

本日、十一月三日は我ら「名古屋おもてなし武将隊」の
結成日なのじゃ!!!!

我らが再びこの現世に蘇って丸十四年。
ここまで来れたのも皆のおかげじゃ。

ありがとさん!

 

さて、此度の日記帳は、
石川は「」へ旅した事を綴って参る!

いざ!

利家がつくりし地 金沢

まずこの金沢という地
今のように整えたのは我が盟友「前田利家

賤ヶ岳の戦いの後に儂が利家に加賀の地を与え、
利家は金沢城に入城し、城下を整えた。

この賤ヶ岳の戦いから金沢城に入るまで、
利家にも儂にも色々と問題事があったのじゃが、此度は割愛を致す。

そんな利家がつくった金沢に何故、此度参ったかと申すと、

石川県立美術館にて現在、開催しておる催し

「皇居三の丸尚蔵館収蔵品展 皇室と石川」

を観に来たのじゃ!

今回、この催しには
皇居(江戸城)の三の丸尚蔵館に収蔵されておる
石川県と前田家にゆかりのある美術品が展示されておるとのこと。

儂の目当てはその中でも、「京極正宗」という短刀。

ここからは「京極正宗」について記して参る。

「京極正宗」の物語

この刀は儂が京極高次という者(儂の側室である京極竜子の兄)に褒美として渡した刀であり、
そこから代々、京極家の家宝として伝わるようになった。

じゃが、この短刀、面白い話があってな。

儂や高次の死後の話なのじゃが、

江戸の時代に入り、明暦の大火徳川将軍家所蔵の刀たちが焼失すると、
将軍家は各地の大名家から名刀を召し上げることをしたらしい。

その折に京極正宗も目を付けられたのじゃが、
今後の行方知れずや焼失を避ける為に、
その時の京極家当主はこの刀を既に無いものとしたとのこと。

 

それから明治、大正と時代か移りかわった時、
「正宗抹殺論」という論が唱えられるようになった。

これは刀工「正宗」は「存在しなかった」、或いは、「存在はしたがただの凡工に過ぎなかった」

という論争であり、
当時の宮内庁御剣掛を務めておった者までも「存在を否定」してしまったのじゃ。

 

しかし、ここである人物がこの「正宗抹殺論」の論争を終わらした。

それは松平頼平という者。

この者は守山松平家の10代目当主であり、また明治期の著名な鑑刀家でもあった者。

この者は当時の京極家当主であった京極高徳と知り合いだったらしく、
その伝で京極家に「正宗」が存在していることを知っておったそう。

そこで松平頼平は京極高徳に正宗を公開するように強く勧めた。

その勧めがありこの「京極正宗」は大正八年にようやく再び日の目を浴び、
「正宗抹殺論」はここで終焉を迎えたのじゃった。

京極正宗を再び儂が見る

長々と京極正宗について話して参ったが、
儂はこの目で再び京極正宗を見れたことが嬉しかった。

高次にあげてからは見ることも無くなってしまったからな。

明かりに照らされておる京極正宗は、
ほんに四百年前と変わらない美しさを放っていた。

皆にもこの感動を分け与えたいのじゃが、

勿論のこと、展示会じゃでね。
写し絵は撮れんかった。

しかしながら、今はなにやら「刀剣乱舞」という遊戯物でこの短刀か人の姿となっておるらしいな。

会場を一通り散策しておったら、おったわ。

なんじゃ、可愛ええ姿じゃの。

なに?

この姿形で男子じゃと?

嘘を言われておると思い、調べてみたら本当じゃったわ。

まぁ、
京極正宗が人の姿になっておる話は置いておくとして。

先程の写し絵の左に写っておった刀が「京極正宗」

この展示会は

十月十四日から十一月二十八日まで開催しておるが、
京極正宗を見れるのは十一月五日までとの事。

故に是非とも儂と同じ感動を味わいたい者は
早めに訪れるのじゃぞ!

まとめ

此度の日記帳は以上じゃ!

今後も儂と関わっておる刀が展示されるとなったら見に行こうと思ってるでね!
その際には同様に日記帳に記して参るぞ!

しかしながら、日ノ本中にある刀剣の殆どが儂の刀じゃったがな。

それと最後に。
利家が築いた金沢城も観に行ったぞ。

此度は前田の者たちの息吹が感じられる旅じゃったわい。

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