新太閤記 〜豊臣秀長編〜

日記

皆の衆!
こんばんはじゃ!

豊臣秀吉である!

此度は儂の弟である「豊臣秀長」を紹介して参るぞ!

いざ!

秀長の生涯

秀長は天文9年(1540年)に尾張国は愛知郡中村にて生まれた男じゃ。

儂と秀長は兄弟同士でな。
儂が生まれた3年後に秀長は生まれた。

最初の頃は儂も秀長や家族皆で暮らしていたんじゃが、

おかあちゃんが再婚した相手、
いわば儂にとっては継父となるんじゃが、儂はあまりこの者と馬が合わんくての。
天文19年(1550年)に中村の家を出て、針を売りながら各地をまわることにしたんじゃ。

故に秀長にとって儂の最初の印象は『急に家を飛び出した良く分からない男』でもあったわけなんじゃ。

儂と秀長が次に再開したのは、
儂が信長様にお仕えした頃に織田家に仕えてくれる者を儂が探しておった時。

小汚い馬に乗って儂は農作業をしておった秀長の前に現れたのじゃ。

秀長からしてみれば、猿みたいな顔をした変な男が自分の目の前に現れて、
『織田家に仕えんか?』と言われて怖かったじゃろうな。

いや、関わりたくなかったじゃろうなあ。

ましてや兄がおったことも知らんが故に、
急に現れて変な戯言を言ってる人間に心なんか開かんわな。

じゃが、その時に儂はちゃんと秀長に対して
「儂はおみゃーさんの兄なんじゃ」っちゅうことを伝えて、おかあちゃんにも会い、
秀長を織田家に連れていったということなんじゃわ。

秀長は弟でもあり、儂にとって初めての家臣でもあるんじゃ。

儂に付いていき、出世の道を辿る秀長

織田家に仕えるようになった秀長は、最初、『木下長秀』と名乗るようになる。

この名は、既に儂が名乗っておった『秀吉』の秀と信長様の『長』の一字を貰い受け、名乗ったもの。

故にここから見ても、秀長は最初は儂と同様に信長様を主君としておったのじゃ。

儂が墨俣城を築城する際には秀長は川並衆の一員であった蜂須賀正勝などに築城する際の協力を求めたりと、
実は裏側で儂の手助けをしてくれておったのじゃ。

信長様が斎藤龍興殿と戦を繰り広げておる際には、儂は前線に行くことが多かった。

故に城の留守居を任せたりと、ここでも『裏側』の仕事をして、儂の手助けをしておる。

この留守居は後にも役に立っておっての。

元亀元年(1570年)の金ヶ崎の戦いでは、
自ら殿を志願した儂の指示に従って、金ヶ崎城に立て篭もる役をも務めておる。

この戦いは秀長自身、大将として1番身体を張った戦じゃったと儂は思うておるんじゃ。

この秀長の功績、そして儂の殿の功績により、儂は見事、信長様から信頼を得ることとなり、織田家の中でも利家や柴田様たちと並ぶ家臣団の一員となったわけなんじゃ。

信長様亡き後、儂の右腕となり、豊臣をまとめる

天正5年(1577年)、信長様の命にて儂が毛利の領地に出陣すると、

秀長は竹田城を攻め落とす武功を挙げた。

これにより、秀長は竹田城代になり、但馬国を統治することとなった。

その後も「三木城攻め」では、信長様より直々に出陣の命が秀長に降り、三木城を降伏開城まで追いやった。

じゃが、この中国攻めの最中に信長様が明智光秀殿に討たれ、儂は軍を引き返し、信長様の仇を討とうと計画する。
結果的に信長様の仇は無事討つことができたのじゃが、ここで問題になったのが信長様の後継者の問題。

最終的には儂が清洲会議にて信長様のお孫である三法師様を後継者に立て、まとまったのじゃが、

これも全て秀長の策でもあるんじゃわ。

また信長様のご次男の信雄殿を儂の味方に付けることも、全て秀長の策。

故に儂は秀長にどえりゃあ助けられておったっちゅうことじゃ。

そんな秀長。
実は和歌山城を築いた男でもあるんじゃわ。
和歌山城というと、浅野や徳川殿の印象が強いんじゃけれどもな。

最初に城を築き、地盤を作ったのは秀長であるのじゃ。

そして紀伊国、和泉国、大和国の三つの国を統治し、
儂のことをこれからも支えてほしかったところで、秀長は体調を崩し、
それが元でこの世を去ってしまった。

享年は52であった。

この死は儂にとってあまりにも悲しい死であった。

まとめ

此度の日記帳はこれにて終いじゃ!

儂のことを裏で支え、豊臣の全てを支えた秀長。
2026年の大河絵巻の主人公にも選ばれた男。

再来年がどえりゃあ楽しみじゃわな!!!

次回は『蜂須賀小六』について紹介致すぞ!!!

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