皆の衆、こんばんはじゃ!
豊臣秀吉である!
儂、豊臣秀吉が織田家臣団30人を毎日紹介する日記帳
此度は蒲生氏郷について紹介して参る!
氏郷の概要
蒲生氏郷は、
弘治2年(1556年)に近江国の日野城で六角氏の重臣であった
蒲生賢秀殿の嫡男として生まれた者である。
永禄11年(1568年)に観音寺城の戦いで六角氏が滅亡すると、
賢秀殿は氏郷を信長様に人質として差し出し、仕えた。
齢13にて人質となった氏郷であったが、初めて信長様に会った際に信長様から、
「蒲生が子息目付常ならず、只者にて有るべからず。我婿にせん。」
(目付きが只者ではない。自分の婿にする)
と言われ、信長様の次女である相応院様を娶ったのじゃ。
そこから氏郷は信長様の元で多くの戦功を残した。
姉川の戦い、第一次伊勢長島攻め、小谷城攻め、長篠の戦いなど、
父である賢秀殿と共に戦場を駆け抜けたのじゃ。
して信長様が亡くなられた後には儂に仕え、
小牧長久手の戦いや小田原の戦いにも参戦しておるんじゃ。
儂の天下統一への道を裏から支えた氏郷に儂は奥州は会津の地を任せておる。
会津を治めたその後も氏郷は儂の代表的な戦に参戦しておったのじゃが、
ある戦の最中、肥前名護屋城にて体調を崩しており、それがどんどんと悪化していき、
文禄4年(1595年)に伏見の蒲生屋敷にて病死してしまったのじゃ。享年40であった。
氏郷を秀吉が褒める
氏郷は信長様より「この者は只者ではない」と言われ、織田家の身内になった者。
儂はそのことを羨ましいと思っていたのじゃが、
「只者ではない」と言う信長様の言葉は本当であった。
故に儂は氏郷に少しばかり恐怖心を抱いておっての、
どこかで「この者がもしかすると謀反を企てるかもしれぬ」と思い、会津へと送った、
との見解もこの現世ではあるようじゃが、
それは皆の想像に任すでね。
しかしながら儂の天下統一への道をを大きく支えたのは事実。
氏郷には感謝しても仕切れないほどの思いを儂は今でも持っておる。
まとめ
さて此度の日記帳は以上である!
氏郷が居城としておった近江国日野城は現世では物凄く神秘的な場所となっておるでね。
もし機会があれば日野城へ足を運んで欲しい。
次回は細川藤孝殿について紹介致す!
コメント
秀吉様、こんばんは
日記帳の更新、ありがとうございます。
秀吉様の視点から語られる家臣団の方々は、秀吉様の素直で正直な言葉はすっと胸に落ちるものがありますし、かといって押し付けず読むものの想像の幅もあるような。
戦国時代は「いくさのじだい」ですから、強い語句でどうだ!という印象のある書物も読んできたのですが、この日記帳はおおらかでとても読みやすいと感じています。
素敵な文章をありがとうございます。
空気を覆うような強い雨が続くこの頃ですが、どうぞご自愛してお過ごしくださいませ。