織田家臣団30人毎日紹介 〜細川藤孝編〜

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皆の衆、こんばんはじゃ!
豊臣秀吉である!

儂、豊臣秀吉が織田家臣団30人を毎日紹介する日記帳
此度は細川藤孝について紹介して参る!

藤孝の概要

細川藤孝は、
天文3年(1534年)に三淵晴員殿の次男として京の都は東山で生まれた者である。

齢7にて和泉半国守護であった細川元常殿の養子となり、
天文15年(1546年)に室町幕府13代将軍、足利義藤様(後の義輝様)の偏諱を受け、
与一郎藤孝」と名乗り、義藤様にお仕えしたのである。

しかしその後、義輝様が三好三人衆に討たれると、
同じく室町幕府の幕臣であった明智光秀殿を頼り、信長様にお仕えをしたのじゃ。

信長様へ仕えた後は、畿内各地を転戦し石山合戦、紀州征伐などの戦に参陣しておる。
また光秀殿の与力として、山陰方面の戦いにも参陣しておるんじゃ。

また藤孝の嫡男には細川忠興と言う者がおるが、
忠興は信長様の勧めで光秀殿の娘である玉(ガラシャ)と夫婦になっておる。

それがあって光秀殿は本能寺の変を起こした後に藤孝へ戦の協力を求めたのじゃが、
協力要請を断り、剃髪して雅号を「幽斎玄旨」とし、忠興に家督を譲り隠居をした。

しかしながら、
隠居後も儂や徳川殿が藤孝を重用したために多くの戦へ嫡男である忠興と共に参陣することとなり、関ヶ原の戦いにも出ておる。

関ヶ原の戦いの後に藤孝は京の都の吉田と言う場所にて優雅な晩年を過ごしたそう。

そして慶長15年(1610年)、三条車屋町の自邸にて亡くなったのじゃ。享年77であった。

藤孝を秀吉が褒める

藤孝が光秀殿の協力要請を断り、剃髪したのは

「信長様の喪に服す」

と左様な訳があってのこと。

故にここから読み取れるのは、
例え光秀殿と縁戚関係にあっても自分の主君を討った逆賊には協力出来ないと言う意志の表れ。

儂にとってはこの者の忠義はどえりゃあ強いものだと感じておる。

まとめ

さて此度の日記帳は以上である!
藤孝も多くの逸話を持っておるが、この者の息子である忠興も面白い逸話を持っておるでね。
もし話が聞きたければ名古屋城へ参ると良いぞ!

次回は堀秀政について紹介致す!

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