皆の衆、こんばんはじゃ!
豊臣秀吉である!
儂、豊臣秀吉が織田家臣団30人を毎日紹介する日記帳
此度は織田信孝様について紹介して参る!
信孝様の概要
織田信孝様は、
永禄元年(1558年)に尾張国で信長様の三男として生まれたお方である。
この現世だから言えることなのじゃが、
実は信孝様は兄である信雄様よりも20日ほど早くお生まれになっているが、
御生母の身分が低かったが故に生まれた報告が信長様の耳に遅く入ってしまったが為に、
三男となったのじゃ。
永禄10年(1567年)、伊勢国に目をつけた信長様は北伊勢に侵攻を開始した。
伊勢国領主の神戸氏の反撃により、一度は撤退を余儀なくされた織田軍じゃったが、
翌年の永禄11年(1568年)には神戸氏を降伏させ、伊勢国北部を平定。
その際に神戸城城主の神戸具盛殿の養子となり「神戸三七郎」と名乗り、
神戸氏の当主となったのじゃ。
天正元年(1573年)以降に信孝様は元服をしており、この時点で「信孝」と言う名を名乗ったそう。
その後は父である信長様に従い、多くの戦に参陣することとなる。
そして、信孝様は四国攻めにて総大将に大抜擢され、四国に軍を進めようとしていたのじゃが、
ここで本能寺の変が起こってしまう。
これにより、四国攻めは中止となったのじゃが、
信長様を討った明智光秀殿を信孝様は儂と共に山崎の戦いにて討ったのじゃ。
しかしながら、その後は柴田勝家様と共に儂と対立をしてしまい、
賤ヶ岳の戦いにて柴田様が儂に敗れ、自害した後に、
自身がいた岐阜城を兄である信雄様に包囲されてしまう。
その時に勝つことは無理だと悟った信孝様は岐阜城を開城し、
その後、長良川を下って、尾張国知多郡野間にある安養院にて自害をした。
享年26であった。
信孝様を秀吉が褒める
信孝様は、文武に優れており、織田家家臣たちからも信頼を得ておったお方。
故に多くの書物にも、信孝様に対してお褒めの言葉が載っておる。
だからこそ儂はちと重要危険人物として見ておったのじゃ。
この者を織田家の当主にしては、儂の立場が危うくなると、
儂がそう思えるくらい、実は織田家の当主にふさわしいお方でもあったのじゃが、
結果として、消しといて良かったの。
まとめ
さて此度の日記帳は以上になる!
信孝様については多くの資料が残っとる故に是非、
皆も調べて見てちょ。
次回は織田信雄様について紹介致す!
コメント