織田家臣団30人毎日紹介 ~織田信忠編~

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皆の衆、こんばんはじゃ!
豊臣秀吉である!

儂、豊臣秀吉が織田家臣団30人を毎日紹介する日記帳
此度は織田信忠様について紹介して参る!

信忠様の概要

織田信忠様は、
弘治3年(1557年)に信長様の嫡男として、尾張国にて生まれたお方である。

ご生母は吉乃様であり、幼名は「奇妙丸」と名付けられたのじゃが、
これは信忠様がお生まれになった際に見た目が可笑しかったからと信長様が命名した、
と言われておるのじゃが、実は我らの頃の風習である魔除け効果を狙って命名されたともいわれておるが、
信長様の心の内はいかに。

元亀3年(1572年)に元服をし、「信忠」と名乗った後は、
織田軍と石山本願寺が争った「石山合戦」や武田軍との戦い「明知城の戦い」などの
多くの戦場に信長様と共に参陣をしておる。

天正3年(1575年)に起こった長篠の戦いで織田徳川連合軍が武田軍を追い詰めると、
信忠様は「岩村城の戦い」にて総大将を務めており、
天正10年(1580年)の「甲州征伐」では5万の軍勢を率いて、武田軍の高遠城を攻め、
武田氏を滅亡させることに成功致したのじゃ。

ちと遡るが、天正4年(1573年)には織田家の家督を継承し、信長様から岐阜城を与えられておる。

しかしながら、儂の中国攻めの援軍に向かっている途中に信長様と信忠様は
京にある「本能寺」と「妙覚寺」に滞在している最中、明智光秀殿の謀反によって
信長様は本能寺にて自害をしてしまわれた。

この報せを受けた信忠様はすぐさまは妙覚寺を飛び出して、二条御所へと移り、
そこで明智軍と奮戦したものの、最後は明智軍の攻撃に耐えられないと分かり、
二条御所にて自害なされたのである。

享年26であった。

信忠様を秀吉が褒める

儂が400年前に見ておった信忠様は、
父である信長様を尊敬し、信長様の後継者として織田家臣団をどう纏められるか
毎日、お考えさなっておった。

故にもし本能寺の変にて明智軍の目を掻い潜り、逃げておられれば
信長様の意思を継ぎ、この日ノ本を儂と徳川殿とは違った形で整えられておったのかも
知れぬなあ。

儂は一度だけ、信忠様の世を見てみたかったと思っておる。

まとめ

さて此度の日記帳は以上である!

信長様の後継者としてお生まれになった信忠様。
その人生は故に儚いものだったと、儂は勝手に思ってるのじゃが、
信忠様と武田信玄様の娘である松姫様の話も面白いが故に、
是非、信忠様について皆も調べてみると良いぞ!

次回は織田長益(有楽斎)様について紹介致す!

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