皆の衆、こんばんはじゃ!
豊臣秀吉である!
儂、豊臣秀吉が織田家臣団30人を毎日紹介する日記帳
此度は池田恒興殿について紹介して参る!
恒興殿の概要
池田恒興殿は、
天文5年(1536年)に織田家家臣である池田恒利様の子として尾張国で生まれた者である。
信長様とは乳兄弟の関係であり、信長様とは血縁関係がないのじゃが、
お2人は身近な存在であったのじゃ。
故に恒興殿は齢10の時から信長様に小姓としてお仕えし、
今川義元様と戦った桶狭間の戦いにおいては奇襲作戦を信長様にご提示し、
その作戦を採用した信長様は見事、今川軍を打ち破ったのじゃ。
その後は犬山城の城主となり、またその後は有岡城の城主となり、信長様をお支えしておった。
しかしながら、明智光秀殿が謀反を起こし、信長様を本能寺にて討つと、
恒興殿は山崎の戦いにて儂と共に光秀殿を討った。
また、清洲会議には柴田様方ではなく儂の方に付いたと思われがちなのだが、
実は中立的な立ち位置におり、最初から儂を推していた訳ではないのじゃが、
小牧・長久手の戦いでは儂の方に付き、
徳川軍を攻めておった際に徳川方の永井直勝殿に討ち取られ、戦死をしてしまった。
享年は49であった。
恒興殿を秀吉が褒める
恒興殿は、
儂にとって無くてはならない存在の者であった。
儂がここまで大きく出世できたのも清洲会議であくまでも中立の立場にありながら儂の方針を推してくれたり、
また小牧・長久手の戦いでは儂が勝てるように動いたりと恒興殿の行動あってのことじゃで。
ほんに恒興殿には感謝しておる。
まとめ
さて此度の日記帳は以上になる!
信長様の乳兄弟で信長様とはご兄弟当然であった恒興殿。
故に信長様の夢を継ぎたいと言った儂にどこか期待をしてくれたのかもしれぬな。
次回は前田利家について紹介致す!
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