織田家臣団30人毎日紹介 ~佐久間盛政編~

未分類

皆の衆、こんばんはじゃ!
豊臣秀吉である!

儂、豊臣秀吉が織田家臣団30人を毎日紹介する日記帳
此度は佐久間盛政殿について紹介して参る!

盛政殿の概要

佐久間盛政殿は、
天文23年(1554年)、尾張国愛知郡御器所にて佐久間盛次様の長男として生まれた者である。

観音寺城の戦いにで盛次様に従い、
六角義賢殿の軍勢が守っておった箕作城を攻めたのが初陣である。
また、越前朝倉攻めに従軍し、手筒山城攻めにて儂と共に先鋒を任され、戦ったのじゃ。

その後、盛政殿は柴田勝家様の与力として、加賀国を平定する際の戦にも先鋒を務めており、
実は利家が入る前の金沢城(その時は尾山御坊と呼ばれておった)の城主にもなっておるんじゃ。

しかしながら、信長様が本能寺にて亡くなられると、儂と柴田様の間で対立が起きてしまった。
そしてその対立は「賤ケ岳の戦い」という大きな戦になってしまい、
その時も盛政殿は柴田様の方へと付いたのである。

じゃが、この戦、最初こそは勢いがあったものの、
結局は柴田様の負け戦となり、盛政殿も生け捕りとなってしまった。

そして、その後に儂は斬首の刑を盛政殿に言い渡し、この世を去ったのじゃ。

享年30であった。

盛政殿を秀吉が褒める

盛政殿は賤ケ岳の戦いの後、生け捕りにされ、儂の前に連れてこられた。
そしてその際に儂へ降伏をし、家臣となるように提言したのじゃが、盛政殿は

生を得れば貴方(儂)を討ちましょう。いっそ某に死罪を申しつけよ。

と言い、さらには

切腹も無用。市中を引き回し磔にされるがよろしかろう。

と儂に言い放ったのじゃ。
その後、儂は盛政殿を京で市中引き回しをし、斬首としたのじゃが、

この言葉は柴田様に最後まで忠義を尽くした、盛政殿の固い意志じゃと儂は思うておる。

見事なまでに忠義の心が強い男だったのじゃ。

まとめ

さて此度の日記帳は以上になる!

盛政殿と昨日紹介致した信盛様は同じ佐久間氏じゃけれど遠縁。
兄弟とか親子とか、そういったものではない。
故に皆も盛政殿のことをもっと調べて見てちょうよ!

次回は河尻秀隆殿を紹介致す!

コメント

タイトルとURLをコピーしました