織田家臣団30人毎日紹介 ~織田長益(有楽斎)編~

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皆の衆、こんばんはじゃ!
豊臣秀吉である!

儂、豊臣秀吉が織田家臣団30人を毎日紹介する日記帳
此度は織田長益(有楽斎)様について紹介して参る!

長益様の概要

織田長益様は、
天文16年(1547年)に織田信秀様の11男として尾張国で生まれたお方である。

信長様の弟君の1人であるが、信長様とは13も歳が離れておるのじゃ。
またお市様とは同い年でもあるのじゃぞ?

長益様の初陣は、
永禄10年(1567年)に起こった「稲葉山城の戦い」の前哨戦である「森部城の戦い

この時の長益様の齢は21であった。
しかし、この戦いで長益様は何も武功をあげられてはおらん。
更には長益様の補佐をしておった佐々成政殿が長益様を助ける羽目になり、佐々軍は活躍が出来ず、信長様の機嫌を損ねたとも。
故にこの戦い以降、長益様は戦に出陣するも前線には回されなくなったのじゃ。

元亀3年(1572年)に信長様のご嫡男である信忠様が元服致し、長益様はその配下に付けられ、
石山合戦」や武田軍との戦いなどに信忠様と参陣。

じゃが、ここで明智光秀殿が謀反を起こし、信長様と信忠様は亡くなってしまう。
実はこの時、長益様も信忠様のお近くにいたのじゃが、謀反が起こるや否や直ぐに御所を脱出しておったそう。

その後は信長様の次男である信雄様に仕え、小牧長久手の戦いでは徳川殿を助ける役割を致した。
またその戦後は儂と徳川殿の講和に際して折衝役も務めておる。

天正18年(1590年)の儂が信雄様を改易した後には儂に仕え、摂津国2000石を与えておる。
また姪の茶々とは庇護者として深い関係にもあり、鶴丸の出産にも立ち会っておるのじゃ。

儂が死んだ後には徳川殿に仕え、関ヶ原の戦いや大坂の陣にも大きな活躍を見せておるとのこと。

して晩年は大坂から離れ、茶の湯に専念し、趣味に生きたそう。

そして元和7年(1622年)、京にて亡くなった。
享年は75だったとのこと。

長益様を秀吉が褒める

先程、概要にて
初陣の際に武功をあげられなく、成政殿が助け、
信長様の機嫌を損ねた挙句、その後の戦では前線に立てなくなった。
と書いたが、実は長益様は戦場で刀や槍を振るうよりも学問や文化、教養に深いお方であって、
利休にも弟子入りしているほど。

故に儂は信長様が長益様を前線から遠ざけたのは、
信長様自身の小姓の教育係や他の大名との交渉役などに使う事に変更させたのではにゃあかと
思っておる。

武功をあげることも大事じゃが、芸能ごとにも手を出すのも良い事じゃからな。

まとめ

さて此度の日記帳は以上になる!

信長様の歳の離れた弟として生まれ、多くのことを見てこられた長益様。
意気地なしの武将の中に数えられておるが、実はちゃんとした教養もある、しっかりしたお方なのじゃ。

次回は織田信包様について紹介致す!

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