新太閤記 〜愛知の神社巡り「城山八幡宮」〜

日記

皆の衆!
こんばんはじゃ!

豊臣秀吉である!

此度の日記帳は『愛知の神社巡り』第六弾

信長様の御父上や弟君、そして信長様にも縁深い「城山八幡宮」について紹介致す!!

いざ!

末森城跡に創建されし城山八幡宮

現在、城山八幡宮が建っておるこの場所は、
信長様のお父上である織田信秀様が築城された『末森城』っちゅう城があったんじゃわ。

天文16年(1547年)に東山丘陵の南端に位置するこの場所に『末森城』を築かれ、
それまで居城としておった『古渡城』からこの新しく築かれた城へと移ったんじゃ。

この末森城があった地は三河方面の松平家(徳川殿の家じゃな)や今川家等から
尾張を守るための地であって、信長様の叔父上でもある織田信光様が城主を務めておった守山城と連ねて尾張における東方の固めとして機能しておったのじゃ。

この時に信長様は那古野城を信秀様より譲られておる。

この末森城には信秀様、土田御前様(信長様のお母上)、信勝様(信長様の弟君)、
信包殿(信長様の弟君)秀孝様(信長様の弟君}、
お市様、お犬様(信長様の妹君)が共に暮らしておったそうで、

信秀様が亡くなられた後には信勝様がこの末森城の城主となられたのじゃ。

じゃが、信勝様は信長様とは仲があまりよろしくなくてな。

ついには信長様に反旗を翻してしまって、戰を仕掛けてしまうんじゃ。

1度目は敗北、2度目はまたもや謀反を画策するも柴田様に信長様へ報告され、
信勝様は清洲城にて殺されてしまう。

その後、この末森城は誰も城主を務めることなく、気づいた時には廃城をなっており、

信秀様が築かれた城は1代にして終わってしまったのじゃ。

城山八幡宮の元となった『白山社』

ここまでが城山八幡宮が創建される前の話じゃ。

では何故、この場所に八幡宮が建ったのか。

それは、末森城は建っておるときに城内に存在しておった『白山社』っちゅうのが由来しておるんじゃ。

この『白山』っちゅうのは加賀、越前、美濃にまたがる白山という山の名前であり、
富士、立山と並び『日本山名山』の1つにも数えられておる山なのじゃわ。

この白山には『白山信仰』っちゅうものがあって、
信勝様はそれを信仰しておったことから末森城の城内に『白山社』が創建されたんじゃ。

そして時代は変わり、明治の終わり頃。

廃城となった後も白山社はこの地域の民によって信仰され続けてきたんじゃろうな。
その白山社を八幡宮に合祀をし、同時にこの周辺にあった浅間社、山神社、一之御前社も八幡宮に合祀された。

そして明治45年(1912年)にこの地は八幡宮が所有する土地となり、現在に至るというわけじゃ。

城山八幡宮の境内にある謎の建物『昭和塾堂』

城山八幡宮に訪れた者は誰しもが必ずみてるであろう建物が境内にはあるんじゃわ。

それがこれ。

何やら不穏な空気が漂っておる建物じゃろ。

しかしこれは『昭和塾堂』っちゅう、昭和時代の、いわゆる『戦前』に造られた建物なんじゃ。

元々は愛知県が青年向けの社会教育をするために建設した建物。

じゃが昭和18年(1943年)には旧日本軍に接収されて、戦時中には陸軍の東海軍司令部として使用されておった。

戦後には名古屋大学医学部、愛知県教育文化研究所、千種区仮庁舎を経て、最終的には、
この八幡宮の近くに存在する愛知学院大学の歯学部が歯学部研究棟として使用しておったのじゃ。

じゃがこれも平成29年(2017年)に八幡宮との賃貸契約は終わっており、
現在は八幡宮が所有をしておるそうなのじゃが、、、

夜にこの場所へ行くと怖いわな。これは。

色々と調べてみると、何やら数十年前には見学をする催し物もあったそうなんじゃが、、、
今は正面玄関には柵が付けられており、関係者しか入れなくなっておる。

いつかこの中も見てみたいわなあ。

まとめ

此度の日記帳は以上で終いじゃ!

信長様にもゆかりのある神社。
この神社には御城印もあるらしいが故、是非とも訪れてみると良いぞ!

次回は「若宮八幡社」について紹介致す!

あくせす

名古屋市営地下鉄東山線 覚王山駅 徒歩7分

ばっくなんばあ

尾張国三宮 熱田神宮
尾張国二宮 大縣神社
尾張国一宮 真清田神社
天王総本社 津島神社
清洲山王宮 日吉神社

コメント

タイトルとURLをコピーしました