新太閤記 〜愛知の神社巡り「三輪神社」〜

名古屋紹介

皆の衆!
こんばんはじゃ!

豊臣秀吉である!

此度の日記帳は『愛知の神社巡り』第八弾
『三輪神社』について紹介して参るぞ!!

いざ!!

矢場町の名の由来にもなった三輪神社

実はこの神社、現在は大須のいち神社として鎮座をしておるが、
詳しいことは分かっていないんじゃ。

三輪神社殿の電子瓦版(ほーむぺーじじゃな)を見ると、創建に関しての記述が
2行で終わっておる。

故にここから見て取れるのは、
この神社自体にも詳しい創建の資料が殆ど残っていない、と言うことなんじゃ。

『愛知縣神社名鑑』には、

「古くは、三輪明神と称して永禄年間(1558-1569)小林城主牧与三右ヱ門長清再興し、天保年中(1830-1843年)改築する」

と記されておるのじゃが、これに対して神社の由緒としては、

「元亀年間(1570~1572)奈良桜井三輪町から小林城に移った牧若狭守長清が深く崇敬する生まれ故郷大和三輪山に大物主神を鎮め祭ったと伝えられている。」

と伝わっている。

この牧長清殿っちゅう人物は、信長様の妹君の夫であり、信長様とはどえりゃあ関係の深い人物。
この近く、現在の矢場町付近にあった小林城の城主をしており、
この大須や矢場町にも関係が深いのじゃ。

じゃが、この神社の由緒なのじゃが、矛盾っちゅうか可笑しな所があるんじゃな。

牧長清殿は1570年2月にはこの世を去っているのじゃわ。
故にこの年間に大和国は奈良県から小林城に移ってきて三輪神社を創建するっちゅうことは不可能になる。

そもそもの話、長清殿は信長様の妹婿。
婚儀を挙げた年月から数えると、この者の出自である大和国生まれは可笑しなことにもなっていく。

ここから考えるに、三輪神社は牧長清殿が『創建』したのではなく愛知縣神社名鑑が言うに、
『再建』であったのではないかと、

儂は此度、三輪神社を調べるにあたり思ったわけなんじゃ。

そして時代は進み、徳川殿の治世になった頃にこの一帯は尾張徳川家の弓の鍛錬場(矢場)が出来、それが元でここの地名が『矢場町』となったのじゃ。

まとめ

此度の日記帳は以上で終いじゃ!
ちいとばかり三輪神社のことが謎すぎて纏めるのが遅くなった、すまなかったの。

じゃが今もなお、若い者たちからも支持され続けておる三輪神社にぜひ行ってみると良いぞ!!

次回は「春日神社」について紹介致す!

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コメント

  1. うたんこ より:

    三輪神社の歴史には分からない事があるのですね~
    信長さまとも関係があるとは!

    うさぎさんに気を取られていて、恥ずかしながら私は調べるには至りませんでした…

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