皆の衆!
こんばんはじゃ!
豊臣秀吉である!
此度の日記帳は『愛知の神社巡り』第11弾
『冨士神社』について紹介して参るぞ!!
いざ!!
名古屋城築城に関連する 冨士神社
慶長14年(1609年)
この名古屋の地にある男が城の築城を命じた。
その男の名は『徳川家康』
そしてこの男の命にて出来たのが『名古屋城』である。
この名古屋城の建設には多くの『豊臣恩顧』と言う儂に忠誠を尽くした大名たちが動員されることとなり、
城と共に作られていく名古屋の街の中に『名古屋城築城 ○○陣所』っちゅうものが多くおかれることとなった。
此度紹介する富士神社もその1つ。
この場所は浅野幸長という男が陣所として構えた場所の1つであるんじゃ。
そこから遡ること足利家の治世は室町の時代。
この時代に富士神社は創建されたと記録に残っておる。
神社に伝わっておる話(社伝っちゅうやつじゃ)には、
この地の郷士であった前山源太夫という男が駿河国に出向いた際、分霊を受けて勧請をしたのが始まり。
駿河国の富士神社というと、富士山本宮浅間大社が有名であるが、
実はこの富士と名古屋にある冨士神社の『ふじ』の漢字が違うのじゃ。
名古屋の方はよーく見てみると「わかんむり」となっておる。
対して総本社である駿河国の方は「うかんむり」なのじゃ。
これは何か意図があるのかと思ってしまうが、今のところどちらでも良いとのこと。
他にも甲斐国側にある北口本宮冨士浅間神社も「わかんむり」であるのじゃ。
実はこの神社、浅野幸長だけではなく徳川殿とも関わりがあっての。
天正10年(1582年)の7月に参詣したとの記録も残っておる。
天正10年というと、信長様が本能寺で討たれた事件が思い浮かぶ者が多いと思うのじゃが、
徳川殿が参詣したのが7月っちゅうことは、この時期と重なるのがそう「清洲会議」
それが終わった後にこの冨士神社に参詣したっちゅうことになっておる。
じゃがこの時はまだ名古屋城は築城されてはおらん。
ましてや信長様が居城としておった那古野城は既に廃城となっており、もぬけのからとなっておった。
この神社が歴史の表舞台に出てきたのは、最初の話である名古屋城築城の際の時。
最初にも言うたわな。
ここは浅野幸長の陣所となった。
じゃが、神社の境内に陣所を置いた訳ではないんじゃわ。
一旦、冨士神社を別の場所に動かしてそこに普請小屋を作った。
そして名古屋城の築城が終わったらまた元の場所に神社を戻すことになっておったのじゃが、
名古屋城築城をしている最中に冨士神社の神主であった前山左兵衛っちゅう男が死んでしまい、
また後を継いだ者がまた幼かった為に神社や屋敷の復旧願いを出すのが遅くなった結果、戻すに戻せなくなったらしいのじゃ。
じゃがこの地にあった富士塚と小さな社は残っており、
また寛政12年(1800年)にはようやく独立して再建が叶ったとのこと。
移された冨士神社は現在でも冨士浅間神社として名古屋は西区に残っている。
ここの地名が『浅間町』なのもこれが理由とのことじゃ。
まとめ
名古屋城築城に関する場所は名古屋の地を歩くとたくさん出てくる。
前回紹介した桜天神社も清正がそこにあった萬松寺を動かして陣所を建てた話をしたわな。
また名古屋城やその近辺を巡る際には要注意して歩いてみてちょ!
次回は名古屋から少し離れて稲沢にある「尾張大国霊神社(国府宮神社)」について紹介致す!
あくせす
名古屋市営地下鉄桜通線『高岳駅』から徒歩約3分
ばっくなんばあ
尾張国三宮 熱田神宮
尾張国二宮 大縣神社
尾張国一宮 真清田神社
天王総本社 津島神社
清洲山王宮 日吉神社
末森城跡 城山八幡宮
名古屋総鎮守 若山八幡社
名古屋大須 三輪神社
名古屋大須 春日神社
名古屋桜通 桜天神社
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