皆の衆!
こんばんはじゃ!
豊臣秀吉である!
此度の日記帳は『愛知の神社巡り』である。
三河国二宮は知立神社について記して参るぞ!
いざ!!
三河国二宮の位を持つ神社


知立神社は三河国は知立市に鎮座する神社である。
この日記帳で神社巡りを始めた折には尾張国の一宮から三宮までを紹介したわな。
愛知県は我らの時代、尾張国と三河国の二国に分かれておった。
故に今は1つの国でもこのように尾張国の一宮から三宮と三河国の一宮から三宮があるというわけじゃ。
この知立神社は三河国二宮の位を持つ神社。
創建は第12代景行天皇の時代に東国平定に赴いた日本武尊がこの知立にて戦勝を祈願し、
平定した後の帰路でまたこの地に寄って創建させたのが、始まりだとされておる。
祭神は主祭神が鸕鷀草葺不合尊
鸕鷀草葺不合尊の父神である彦火火出見尊
鸕鷀草葺不合尊の妻である玉依姫命
そして日の本の初代天皇である神武天皇
この4柱を主祭神としておる。

そう。
気付いた者もおるかも知れぬが。
この知立神社は初代天皇である神武天皇の家族を祀っておることとなっておるのじゃ。
これはこの神社を創建した日本武尊が建国祖神を祀らせたことから始まっており、
日本武尊も皇族関係者であるが故に、そう言ったものも含めた上での主祭神じゃと儂は思うておる。
そしてこの主祭神とは別に、
碧南地方の開拓にあたった伝承を持つ人物の青海首命と聖徳太子様も祀られておる。
聖徳太子様をお祀りした経緯は江戸の時代の中期にその記述が見られる。
この神社は我らの時代には水野家の庇護を受けており、
文明3年(1471年)には水野直守公が社殿を修造し、
大永6年(1526年)には水野忠政様も同じく修理を行なっておる。
こうしたことから知立神社と水野家には縁ある場所となっており、
その関係上で実は徳川殿とも関係深い神社でもあるのじゃ。
徳川家に関係する知立神社
水野家と申すと。
先ほど紹介いたした水野忠政様。
このお方は徳川家康殿の祖父にあたり、徳川殿の母上様である於大様の父上様に当たる。
因みにじゃが水野家で有名所をもう1人紹介致すと、
徳川殿の従兄弟でもある水野勝成じゃな。
この水野勝成は忠政様の子である水野忠重殿の子であることから、忠政様の孫の1人でもある。
じゃから徳川殿と水野勝成は「従兄弟同士」というわけなのじゃ。
話が勝成のせいで脱線してしまったな。
すまぬ。
してこの知立神社は水野家が庇護しておった。
ここで出てくるのが知立神社の神主職を代々務めておった「永見氏」と呼ばれる者たち。
実はこの者たちも徳川殿に関係しておる者たちであるんじゃわな。
この永見氏は白鳳2年(674年)に時の天皇であった天武天皇の命にて
知立神社の神主を務めることとなる。
そこから平安の時代、鎌倉の時代をと神主と武士の2足の草鞋を履きながら生き残った
名家中の名家。
そんな名家じゃからこそ、
知立やその周囲を治めた者たちとは血縁関係を持ちたかったのじゃわな。
29代当主であった永見貞英殿は水野忠政様の娘を室に迎え、
その2人の間に生まれたのが於古茶と呼ばれる娘。
そうこの於古茶という娘こそ、徳川殿の側室で結城秀康の母でもある人物、於万姫のこと。

故にこの知立神社は於万姫が生まれた地域にある神社であり、
徳川殿にも秀康にも縁がある場所でもある神社なのじゃ。
因みに。
これは儂自身も真偽は知らぬが。
秀康は実は双子じゃったと言われておる。
実は我らの時代、双子というのは「犬畜生と同じ双子腹」と言われ忌み嫌われておった。
故に秀康とその兄弟が双子で生まれてきたことを知った徳川殿は実子として認めず、
秀康だけを息子として認め、もう1人は夭折したことにし、
於万姫の実家である永見家に預けられ、永見家でそのまま育った、と言われておる。
それが永見貞愛という人物であると、当時からも噂されておった。
じゃが、まあ。
この話は徳川殿だけが知るものと致そうとするかの。
徳川殿も我が親族ではあるが。
知られたくない話もたくさんあると思うからの。
あくせす
名鉄名古屋本線 知立駅より歩いて10分程
ばっくなんば
尾張国三宮 熱田神宮
尾張国二宮 大縣神社
尾張国一宮 真清田神社
天王総本社 津島神社
清洲山王宮 日吉神社
末森城跡 城山八幡宮
名古屋総鎮守 若山八幡社
名古屋大須 三輪神社
名古屋大須 春日神社
名古屋桜通 桜天神社
名古屋高丘 冨士神社
尾張大国霊神社(国府宮神社)
那古野神社 名古屋東照宮
名古屋市北区 別小江神社
愛知県岡崎市 八柱神社
元伊勢 酒見神社
尾張猿田彦神社
【番外編】長嶋山妙興寺
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