皆々、息災であるか
前田又左衛門利家である。
此度の日記帳は100名城の旅、三十一城目である。
いざ参らん!!
会津若松城
此度参ったのは会津若松城、
またの名を鶴ヶ城と申す。
この城は儂とも親交が深く、
戦国史で最も過小評価されておるとも言われし、
蒲生氏郷の城じゃ!
更には幕末にも大戦の舞台にもなっておって観光の者もどえりゃあ多いのじゃ。
早速見てまいろうではないか!
交通・行き方
JR磐越西線『会津若松駅』にて会津バスに乗り換え。
鶴ヶ城まわり行きに乗車して『鶴ヶ城北口』にて下車。
そこから歩いて3分ほどじゃ。
百名城スタンプの在り処
100名城スタンプは天守の中にある売店にていただくことができる。
天守の中を楽しんだ後の帰り際に押すのが良いであろう。
会津若松城の歴史
若松城の前身となる黒川城は、
東北の雄蘆名家によって築かれた。
蘆名家は盛氏殿の代に最盛期を迎えるのじゃが、
盛氏殿の死後、伊達政宗の台頭によって黒川城を奪われることとなった。
じゃが政宗による支配も長くは続かず、
秀吉による天下統一と奥州仕置によって大幅な領地替えが行われる。
そして新たな領収となったのが蒲生氏郷というわけじゃ!
氏郷は黒川城を大改修致して今の若松城の原型を作った。
氏郷が築いた若松城は七重の豪壮なる天守を持つ大きな城であったぞ!
この地の名前を黒川から若松に変えたのも氏郷である!
この地に移った氏郷は92万石を与えられ、
豊臣政権にとって脅威になりうる伊達家や徳川家を抑える役割を担ったのじゃ!
氏郷は武勇も内政も築城にも秀でた才人であり、
この極めて重要な役割を確と全うしたのじゃが、病によって若くして亡くなったのじゃ。
氏郷の死後に起きた家中の争いで蒲生家は減転封され、
かわりに上杉家が入るのじゃが、
上杉も関ヶ原の責任を問われて減転封。
これによって再度蒲生家が入ることとなったのじゃが、
氏郷の孫・忠郷に子がないまま亡くなったために再度減転封され、代わりに加藤嘉明がはいる。
この時に加藤嘉明の手によって若松城は再び改修され、今に残る縄張りとなった。
復元されておる天守もこの時に築かれた天守の姿である。
加藤嘉明は現世に残る伊予松山城をはじめ、多くの名城を築いた築城名人。
氏郷の縄張りをもとにさらに堅固に改修を施したのじゃ。
1611年に起きた大地震でこの城は大きな被害を受けておって、それを整え復興する意味合いもあったのであろうな。
加藤家は今に残る若松城を完成させたのじゃが、これまた家中の争いで改易されてします。(のちに再興)
ここで入ったのが保科正之殿、
徳川秀忠殿の四男である!
保科家が入ったのちには安定した治世が続き、幕末まで続くこととなる。
保科家は途中で家名を松平にかえて、江戸時代を通じて徳川家にとって随一の親藩として活躍していくこととなる。
その最たる例が幕末の藩主松平容保殿であろう!
新撰組を率いたことで名を知られる容保殿は、
幕府の命によって混乱を極める京を治める京都守護職に就くと難しい局面の中でも最後まで徳川家に忠誠を誓い、戊辰戦争でも最後まで気を吐いたそうじゃな。
最新の武器を持つ新政府軍に対し抵抗を続けたために若松城の天守は崩落寸前まで大砲を撃ち込まれ、降伏後に撮られた映し絵はなかなか衝撃的である。
大打撃を受けた天守は戦の終結と共に解体されたのじゃが、
若松の象徴として1965年に再建が叶って今に至るわけじゃ!
見所
まず出迎えてくれるのは美しい水堀、
これを超えると角馬出に入り良い石垣が続く。
少し進むと氏郷時代の石垣と旧表門があるわな!
ここを潜ると天守が見えて参るぞ!
その前に立つのは表門。
再建された櫓門と多聞櫓が美しいわな。
天守の石垣は氏郷の時代から残るものである。
天守の中の展示も実に良きものばかりで、
政宗や上杉景勝殿、氏郷の代表的な代わり兜や
鶴ヶ城の特徴でもある瓦、
白虎隊の使っておった武器や、
保科家の家訓などをみることが叶う。
他にも廊下橋や高石垣など見どころも多く、
城内の土産処では新撰組にまつわる品や甘味など良きものが揃っておるぞ!
蛇足
若松城はいかがであったか!
歴史の人気者新撰組ゆかりの地ということで、実に人気の高い城である。
現世に残る城の多くは江戸時代の前後に建てられたもの故に実際に戦を経験した城は決して多くはない。
その中で幕末に激しい戦を経験した城として誠に多くのことを伝えておる城じゃと思う。
周りには新撰組にまつわる店が並んでおるで幕末好きにはたまらんじゃろうな。
わしも氏郷渾身の名城として思い入れのある城だで、皆には戦国と幕末の両輪で楽しんでほしい。
そしてこれは誠に蛇足であるが、最後の当主松平容保殿は尾張徳川家の分家高須松平家の出身であって名古屋城にも縁があると言える。
高須松平家は
尾張藩主徳川慶勝殿、
桑名藩主松平定敬殿、
一橋家当主一橋茂栄殿、
会津藩主松平容保殿、
の四兄弟がそれぞれ維新の世で重要な任につき、
新政府に与した慶勝殿、幕府方の交渉人として新政府と渡り合った茂栄殿、
新政府に徹底抗戦した容保殿と定敬殿と兄弟で敵味方に分かれて戦っておる。
幕末の中でも実に見どころのある話だで気になるものは調べてみるがよいぞ!
それでは、次の城巡りでも会おうぞ!
さらばじゃ!
コメント
利家さま
こんばんは~
日記の更新ありがとうございます
そして
本日はクイーンズスクエア横浜での出陣お疲れさまでした
いろんな問答がありそしてヒントに笑った時でした
ありがとうございました
多くの人に愛知のことを知ってもらえたと思います
訪れた人と名古屋城で再会することができるといいですね
櫓門と多聞櫓は綺麗で大きいです
写し絵ありがとうございます
実際に見てみたくなりました
そして
高須四兄弟ですね
苦笑いです
明日に備えてゆっくりと休んでくださいね
利家様、日記帳更新ありがとうございます!
会津若松城(鶴ヶ城)…信長様の娘婿殿、蒲生氏郷様のお城ですね!
沢山の写し絵もありがとうございます
水堀、石垣、天守そして櫓門に多聞櫓!
いずれも美しいですね✨✨
天守の中の展示も気になる…(笑)
会津若松は学生時代に行ったことがありますが、城内には入らなかったので実際に見てみたくなりました!
それでは、次回の更新も楽しみにしています♪
利家様はこれから舞台公演に向けてますますお忙しくなると思いますので、くれぐれもご自愛くださいませ