皆々、息災であるか
前田又左衛門利家である。
此度の日記帳は100名城の旅、十城目である。
いざ参らん!
水戸城
此度は徳川御三家が一つ、水戸藩の本拠である水戸城である。
江戸時代においては有数の石高を誇った大藩の城を見て参ろうではないか。
交通・行き方
JR常磐線『水戸駅』より歩いて8分。
道中には藩校である弘道館があるぞ。
百名城スタンプの在り処
弘道館の料金払口にていただくことが叶う。
弘道館では多くの展示が見られるで、城と併せて楽しむが良い!
水戸城の歴史
水戸城の始まりは平安末期、
馬場家によって築かれた。
室町の時代までは馬場家が治めておったのじゃが、
1416年、江戸家によって落とされるとそこからは長きにわたって江戸家の城となった。
事態が動くのは戦国末期、
皆も想像つくのではないか?
そう、秀吉による北条攻めと奥州仕置である。
江戸家の当主江戸重通殿は秀吉に降らず北条家へ加担した為に領土を没収され、
東国の名門で常陸国の多くを領有する
佐竹義宣殿に与えられることとなったのじゃ。
じゃが、江戸家は秀吉に降らなかったのではなく佐竹家に取り次ぎを頼んでおったのじゃが、
義宣殿がこれを黙殺し秀吉に恭順の意思を伝えられなかったとも言われておる。
佐竹家は、江戸家が領土を失えば自らの加増に繋がると考えたのかもしれんな。
こうして佐竹家のものとなった水戸城であるが、
また、とある出来事によって持ち主変わるのじゃ、
これも予想つくのではないか?
そう、
関ヶ原の戦いである。
佐竹義宣殿は石田三成とも懇意の間柄、
然りながら徳川家とは領土も近く強さも知っておるでな、敵に回すのも難儀であろう。
故に戦そのものに消極的であった。
じゃがどっちつかずな態度をとってしまった為に佐竹家は常陸国から久保田へと転封されてしもうたのじゃ。
先に久保田城の紹介でもこの話は致したわな。
佐竹家がいなくなった水戸城は、
家康殿の五男で武田家の家を継いだ信吉殿や、
十男の頼宣殿に与えられた。
じゃが、信吉殿は若くして亡くなり
頼宣殿は駿府へ移封され(のちに紀伊へ)
徳川殿の末子、頼房殿に与えられることとなった。
無論、この時に改修されて大きな城となったのじゃが、
天守はなく破風のない三重櫓を代わりとし
多聞櫓や櫓の数も他の城と比べると非常に少なかったそうじゃ。
これは幕府を近くで陰ながら支え続ける水戸藩の気風が、
よく表れておる。
幕末には名君で知られる斉昭殿によって
先に申した弘道館や、日本三代庭園が一つ偕楽園が作られ今の姿となる。
じゃが、斉昭殿の存在を疎ましく思った大老・井伊直弼によって蟄居処分を受けてしまう。
それを不服とした水戸脱藩浪士が井伊直弼殿を討ち取った桜田門外ノ変を起こすわけじゃな。
斉昭殿が亡くなったのちには家中が二つに割れてその内乱によって城内の多くの建物が失われたようじゃ。
見所
先にも触れた偕楽園と弘道館は人気の観光地であるのじゃが、
わしが勧めたいのは、
雄大に広がる空堀跡である!!
土づくりの近世城郭としては日ノ本最大級であるこの城の魅力が詰まっておる。
そしてよく見ると堀底に線路が走っておるわな。
この線路は水戸から福島へ進む、JR水郡線のものじゃ!
前の城巡りにて紹介した福島にある三城、
鶴ヶ城、二本松、白河小峰と併せて水戸城に参るならば電車の中から見ることを勧めよう。
復元された大手門、
二の丸に復元された二の丸隅櫓も確と見ていくが良い!!
二の丸は道の両脇に土塀が再現されておってなかなか良い景色である。
本丸に至ると水戸城唯一の現存建築、
薬医門が立っておる。
重々しさを感じる実に良い門であるわな。
然りながら、この門は今学舎の校門として使われておる。
故に学舎に通うものたちへ迷惑のかからぬように映し絵を撮るんじゃぞ。
蛇足
水戸城は如何であったか!!
中々、誠に良き城であろう!
水戸城は水戸徳川家がそうであったように、大きな力を持ちながらも質朴な風合いの城である。
皆の中にもこういった趣を好む者も多いのではないか!
して、この水戸の地はかの水戸黄門なる絵巻の舞台でもあるわな。
故にか賑わいも見せておって、江戸への旅行のついでにも誂え向きやも知らぬ。
或いは和歌山城や我らのおる名古屋城と見比べ、徳川御三家の城制覇を目指してみるのも面白いであろう。
此度の城巡りはこれにて終い、
次も関東の城巡りである、楽しみにしておれ!
コメント
利家さま
おはようございます
日記の更新ありがとうございます
足の運んでないお城ですが
写し絵に百名城の本とにらめっこして行った気になってます(笑)
城巡りは残り少なくなりましたね
お怪我なく楽しく巡ってください