皆々、息災であるか
前田又左衛門利家である。
此度の日記帳は100名城の旅、四十城目。
此度紹介致す城は黄色と赤に関わりのある城じゃ!
いざ参らん。
箕輪城
此度紹介致す城は箕輪城。
武田信玄殿を幾度も退けた上州の黄斑・長野家が築き、
赤鬼・井伊直政殿が大改修を行なった城で
東国流の土の城としての美しさと、近世流の石垣建築が両立する、
玄人好みの城として代表的な存在で
人気の高い城であるぞ。
交通・行き方
JR『高崎駅』西口2番乗り場より、
群馬バス『箕郷』行きに乗り30分、『箕郷本町』にて下車、徒歩20分。
或いは、
『伊香保温泉』行きに乗り30分、『城山入り口』にて下車、徒歩15分。
百名城スタンプの在り処
高崎市箕郷支所
箕郷矢原宿
高崎市箕郷公民館
の三箇所じゃ。良きところで押して参るがよかろう。
箕輪城の歴史
箕輪城を築いた長野氏は上野国の国衆である。
上野は北条や上杉、後に武田といった強大な勢力に囲まれた難儀な場所であった。
じゃが大勢力と渡り合い難局を乗り切ったのが、
上州の黄斑の名で呼ばれし長野業正殿である。
黄斑とは虎のことで、甲斐の虎・武田信玄殿と合わせて作られた異名と言われておる。
信玄殿の上野侵攻を幾度も跳ね返し、
信玄殿が「長野業正がいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」
と申したと伝わるほどであった。
事実、業正殿が死ぬまで武田家は上野を手にすることはできず、
業正殿の死後に大軍を持って攻め落とし、箕輪城は武田家の支城となった。
長野家によって築かれたこの地は、
西側に榛名白川、南側を椿名沼に囲まれ、
地形を生かした難攻不落の城である。
武田家の時代には北面の要の地として真田幸村こと信繁殿の祖父である真田幸隆殿や、
武田四天王・内藤昌豊殿が城主を務めておる。
信長様によって武田家が滅んだ後には滝川一益殿が入ったのじゃが、間も無く本能寺の変が起き、混乱に乗じた北条家が奪い北条氏邦殿が城主となった。
その折に改修が行われたようじゃ。
そして、
秀吉の天下統一の総仕上げ、北条征伐が始まるとこの城は北陸勢によって取り囲まれ、箕輪城は降伏開城。
北陸軍を指揮したのは無論、儂前田利家である!
秀吉の天下統一後東国に入った徳川殿が家臣井伊直政殿に与え大改修が行われるも、
直政殿は高崎城に居を移したために廃城となった。
見所
箕輪城は曲輪が確と整備され、当時の縄張りがわかりやすく残っておる。
土の城は雨や嵐で土が流れたり、人が通るにつれて踏み崩されていったり、動物の影響も受けて残していくことが難しい。
故に箕輪城ほどに確と残っておるのは誠貴重といえよう。
大堀切や、
土塁、
地形や遺構をもとに嘗ての城の姿を想像しつつ巡っていくのがよかろう。
そして
直政殿が築いたとされる石垣も見どころである。
箕輪城一番人気の場所は復元された郭馬出西虎口門じゃな。
本丸には木橋も復元されておるぞ
蛇足
箕輪城はいかがであったか!
儂も嘗て関わった城として思い入れのある城である。
先にも申したが、縄張りや郭の様子が実にわかりやすい形で現存、整備されておる。
中でも屈指の大きさを誇る堀切は一見の価値ありじゃ。
広すぎてただの林道のように映るやもしれんがな、
少しばかり距離は遠いが足を運ぶ価値のある一城であるぞ!
是迄の城(ばっくなんばぁ)
コメント
利家さま、こんにちは(*´ω`*)💚
日記帳更新ありがとうございます。関東シリーズ、とりあえず日記帳を見てから行くか、先に予想して行くか悩んで約半年ww
以前聞いた通りに頑張りたい所存ですが、色々あります故に行ってきました報告は年内お待ちください(笑)
関東でも利家さまに縁のあるお城に・・・と考えてましたのでやっぱり箕輪城ですね✨✨←何故八王子城は止められたのですか(´;ω;`)
名古屋へ会いに行きたい気持ちを抑えながら、関東城攻め頑張ります。
10日はKITTEにて家臣団の皆様方と無事のお越しをお待ちしています✨